一般的に専門的な知識の習得には時間がかかるものです。熟練技能が必要な業種ほど、代わりの人材をすぐに見つけることは困難でしょう。また自然災害が発生した場合などには、たとえ人材を確保していてもその人材そのものが活用できない状況が発生しかねません。あらゆる業種で人材不足が叫ばれる中、今、注目されているのは、デジタライゼーションによって人の持つ知識・スキル・経験を代替していく試みです。
中外製薬株式会社は、製薬業界の中では早期にチャットボットを導入した企業の一つです。医療の現場において、最新かつ正確な医薬品情報は患者さんの生死に影響を与えることもあります。「QnA Maker」によって製作された同社の「MI chat(エムアイチャット)」は、医療関係者の質問に対して、24 時間 365 日、どのようなときでも情報を提供することを可能にしたのです。
平準化が難しく、法規制も厳しい医薬品情報の提供
中外製薬は「医療用医薬品」に特化した日本の大手製薬企業です。がんや関節リウマチ、血友病といった領域を中心に、革新的な新薬の開発・提供を目指しており、がん領域製品においては国内トップシェアを誇ります。
医療用医薬品とは、医師の診断を必要とする処方薬のことです。患者さん一人ひとりの症状に合わせて、医師が処方を出し、さらに薬剤師が確認したうえで用いられます。ここまで注意を払うのは、適切に使わなければ期待した効果が得られなかったり、逆に予期せぬ副作用が生じたりする可能性があるからです。
革新的な医薬品が続々と開発され、治療法が高度化・複雑化していく現代において、「正しい情報」の提供は極めて重要なのです。
こうした背景のもと、中外製薬メディカルインフォメーション部では、医療関係者や患者さんの問い合わせに対して、正しい情報提供を心掛けてきました。
その対応における従来の課題について、中外製薬株式会社 メディカルインフォメーション部 MI 管理G 田中 里和 氏と佐々木 洋 氏はこのように話します。
「年間におよそ 48,000 件のお問い合わせをいただくのですが、医師や薬剤師からは電話でのお問い合わせが多く、ウエブでの情報提供も進めていますが、問合せ者が求める情報を常に提供することが難しい状況でした」(田中氏)。
「コミュニケーター(医薬品の専門知識をもって対応にあたる電話応対者)は、『腎機能障害のある患者さんに投与する際の用法用量は?』『高齢者に投与する際の用法用量は?』といった、さまざまなケースに対して、医師の判断の助けとなる、科学的根拠に基づいた情報提供をする必要があります。知識や応対スキルには個人差があるといった課題がありました。問合せ者の背景も様々であることから、十分な情報提供がしきれないという課題もあります。」(佐々木 氏)。
情報提供については、さらに医薬品業界ならではの難しさがあると、中外製薬株式会社 メディカルインフォメーション部長 串戸徳彦氏は続けます。
「メディカルインフォメーション部が扱う情報は個人情報の保護はもちろんのこと、生命関連企業として『医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律(医薬品医療機器等法)』やガイドラインなどによって、厳密な規制が設けられています。承認を受けた範囲外の情報の提供については厚生労働省より『医療用医薬品の販売情報提供活動に関するガイドライン』が出ており、求めに応じた対応に限られているほか、誰にいつどの情報を提供したのかという記録をしておく必要があります。こうした条件があり、なかなか人力を代替することが難しかったのですが、昨今の IT の進化の中で、実用に耐えられるレベルのツールが登場しました」(串戸 氏)。
串戸氏の言うツールとは、「チャットボット」です。
チャットボットとは、人間が入力するテキストや音声に対して、自動的に回答を返すプログラムのことです。AI の進化によって、多少あいまいなことばで質問しても、意図を汲み取り、高精度な返答ができるようになったことから、最近大きな注目を集めています。
中外製薬は、Microsoft Azure のチャットボット製作サービスである「QnA Maker」を駆使して、「AI を用いた医療関係者向け製品情報問い合わせチャットボット」の開発をスタートしました。
QnA Maker によって、正確な情報を伝えるチャットボットを開発
市場には多数のチャットボット製作サービスがありますが、今回のチャットボットでは Microsoft Azure の QnA Maker など Cognitive Services を採用して開発を行いました。開発を担当した株式会社ジェーエムエーシステムズ クラウドソリューション AP 部 部長代理金子 大輔 氏は端的に告げます。
「検討したあらゆる製品の中で、もっともセキュリティ要件を満たすものが Azure だったのです」(金子 氏)。
Microsoft Azure は、医薬品の製造・管理・流通の各段階で安全性と信頼性を担保するためのグローバルなレギュレーションである GxP(Good x practice)に則っていることはもちろん、厚生労働省の定める CSV(Computerized System Validation)にも対応しています。 さらに、医薬品・医薬部外品製造販売業向けに、Azure 上でデータをどのように管理しているのかを明らかにするリファレンスも公開しており、医療・医薬品産業に対して多くの導入実績を持っていました。
チャットボットの開発に当たっては、高度なセキュリティを基盤に据えることに加えて、情報提供の仕方に細心の注意を払ったと、中外製薬株式会社 メディカルインフォメーション部 MI 推進G 分銅 淑氏は言います。
「規制に合ったツールを作らなければならないことは当然として、質問者の意図を正しく汲み取り、間違った回答をしないように工夫を凝らしました。たとえば、人間同士の会話なら相手の意図や背景を確認するために『この情報が必要なのは何故ですか?』などと、さらに質問を深掘りすることができますよね。そこでチャットボットでも、最初に質問をしたあと『副作用についてですか?』『用法用量についてですか?』『保存方法ですか?』と、確認のための選択肢を表示する UI にしました」(分銅 氏)。
誤った情報を伝えてしまうことは、そのまま命に関わることがあります。最大限の慎重さをもって設計・開発は進められました。
質問と回答文の作成について、中外製薬株式会社 メディカルインフォメーション部 MI 管理 G マネージャー 結城陽二郎氏はこう振り返ります。
「過去の問い合わせから、製品ごとのよくある質問は把握していたので、それをもとに QA データを作成していくことができました。ただ、薬剤師は『処方』、医師は『服用』など、同じ問い合わせでも言い回しが変わるケースがあるので、その洗い出しに苦労しました。リリース時では 1 製品あたり 100 〜 200 の QA データが登録されています」(結城 氏)。
AI を用いた医療関係者向け製品情報問い合わせチャットボット「MI chat(エムアイチャット)」は、2019 年 1 月にリリースされました。2020 年 6 月時点では、関節リウマチ・がん・骨粗鬆症・腎性貧血・肝炎・感染症・血友病などに関する 20 製品に対応しており、2020 年末までに全製品に対応する予定です。
プロフェッショナルから期待を集める MI chat
リリースされた MI chat に対して、医師や薬剤師といったプロフェッショナル達はどのように反応したのでしょうか? 薬剤師を対象に定性調査を行ったところ、取り組みへの期待が多く寄せられたと、田中 氏と分銅 氏は言います。
「薬剤師から『調剤業務が終わったあと、調べ物をしたいタイミングでいつでも質問できるのはとてもよい』という評価をしていただきました。」(田中 氏)。
「夕方は仕事帰りなどに受診する患者さんが増えるためにお問合せが増えることがあります。薬剤師が患者さんの対応をしているうちに弊社のコンタクトセンタ―が受付時間を終了していたり、患者さんの対応が終わった後にじっくり調べものをする頃には電話ができずに翌朝になってかけ直すことがあったようです。ヒアリングによってチャットボットへのニーズをあらためて感じることができたので、今後はユーザーにストレスなく利用してもらえるよう改良していくとともに、学会でのデモなどを通じて、MI chat の認知度向上に努めていきたいと思います」(分銅 氏)。
ジェーエムエーシステムズの金子 氏は、オーダーメイドのチャットボットを 2 カ月半という短期間で導入できたことも、高く評価したいポイントだと言います。さらにチャットボット製作に利用した QnA Maker と、基盤としての Microsoft Azure を次のように評価しました。
「QnA Maker は QA のエンジン部分のみ提供されるため、今回のように柔軟な仕組みを構築する必要があるチャットボットに適していると感じました。また、QnA Maker が Azure のいちサービスとして提供されていたこともポイントでした。MI chat はパブリックでは公開していない情報を取り扱うのですが、Azure の各機能を使うことによって、アクセスを制限する仕組みを迅速に構築することができたのです」(金子 氏)。
IT 技術によって医療のナレッジコミュニケーションをさらに進化させていく
MI chat は中外製薬の会員向け Web サイトを通じて、科学的に正しい情報をいつでも届けることを可能にしました。佐々木 氏は今後について、次のように言います。
「MI chat は現在はテキスト入力しか対応していませんが、今後は音声認識技術を取り入れて音声にて質問入力できるようにすること等、よりユーザーの利用シチュエーションに合わせた機能強化を検討していきたいと思います」(佐々木 氏)。
また、串戸 氏は IT と医療のあり方をこのように展望します。
「もともと医薬品業界では、画像処理やビッグデータ解析の技術は非常に進んでいたのですが、情報共有やコミュニケーションの技術となると、まだまだ未成熟な部分がありまし た。しかし、今後は COVID-19(新型コロナウイルス感染症)を契機としたのニューノーマルな世界に対応するために、先進的な IT 技術を利用したオンライン診療が一気に医療界へ浸透していくことでしょう。合わせて、人間が受け答えできない場合にも対応可能なチャットボットの利用・導入がさらに進んでいくと思います。もちろん、患者さんの治療に必要なのは当社の薬だけではありませんから、製薬業界が一丸となってチャットボットを推進していければと考えています」(串戸 氏)。
製薬業界の中でも、先駆的にチャットボットによる情報提供をスタートさせた中外製薬。24 時間 365 日、正確な情報を提供し続ける同社の取り組みは、日本の医療現場への情報提供をさらに強固なものにしていくことでしょう。
[PR]提供:日本マイクロソフト