偶然同僚となったバークレー大のルームメートと20数年ぶりに再会

私は就任後、月例タウンミーティングの開催を社内に呼びかけ、速やかに実行に移した。タウンミーティング直後、飲食付きの社員との懇談会を催し、社員とマネジメントとの親睦を計った。徐々に多くの社員が参加するようになった。社内間のコミュニケーションを促進する一方、社長として最初の難題として取り組んだことは、前任の社長から引き継いだ丸文との代理店販売契約解消の件であった。誠意をもって、幾度かの打ち合わせを行った結果、ザイリンクス側の真意を正しく理解してもらい、最終的には円満な形で解決を計れた。

私は就任の際、2年以内にザイリンクスは日本国内における最高の強敵、日本アルテラ(Alteraの日本法人)を抜いて、国内マーケットシェアでNo.1になることを一大目標に掲げた。早速社内で優秀な人材を選抜し、打倒日本アルテラを目標にタスクフォースを結成したほか、2000年10月9日付けで関西地区の販売サポート体制を強化すべく、新大阪の駅前ビルであるニッセイ新大阪にザイリンクス大阪営業所を開設した。

ザイリンクスのオフィス(当時)の様子

さらに2001年10月1日、国内販売代理店2社、東京エレクトロデバイスとメメックジャパンに加え、イノテックと新規Design-In サポートを主なミッションとするテクニカルパートナ契約を結んだ。この提携はテクニカルレップ.による新しい拡販体制のビジネスモデルであった。

そして2002年4月24日、Wim Roelandts CEO同席の元、大々的な記者会見を催した。記者会見の席上でザイリンクスが国内のPLD(プログラマブル・ロジック・デバイス)市場において7%のマーケットシェアを増やし、遂にアトメルジャパン(Atmel日本法人)を追い抜き、名実とも堂々国内のNo.1のPLDメーカとして飛躍を遂げたことを報告した。全社に占める日本の売り上げ比率は念願の12.5%(前年度は10%)を達成したことも合わせて嬉しい発表となった。

2002年7月1日、ザイリンクスは有力国内半導体商社、新光商事株と主力製品であるCPLD拡販強化を目指し、CPLD専任販売代理店契約を結んだ。続いて同7月9日には前年度に引き続き、「Programmable World 2002 Japan」を都内のホテルで開催した。3つの基調講演に加え、16のテクニカルセッション、8つのベンダーセッションが実施されたこのイベントの出席者は述べ1000人を超えた。素晴らしい成果は、ザイリンクスマーケティング広報担当者による尽力の賜物であった。

2002年7月上旬、Xilinx本社への出張を終え帰国の日、GMの1人が私にぜひとも紹介したい同事業部のエンジニアリングマネージャがいると言われ、飛行機の出発時間が迫っていたので最初は一旦断った。そしたら後5分だけ待ってほしいと強要されてしまい、渋々当人を待つことにした。

数分後、廊下の向こうから色黒でスリムなアジア系の男性が歩いて来るのが確認出来た。笑顔の彼が私に向かって段々と迫ってくる感じがした。私は思わず立ち上がって、彼の元へ小走りで近づいて行った。満面笑顔のシャイそうな彼は, 間違いなくバークレー大学(UC Berkeley )の学生寮(I House)でのルームメート、パキスタン出身のアジム( Asim Abajiwa) だった。神の導きかとも思えるような彼との25年ぶりの再会を同じ職場で果たした。アジムは私が長年再会を願っていた旧友の1人であった。ありがたい事に、彼は私が教えた日本語をしっかり覚えていてくれた。アジムに加え、本社サイドで日本担当QAマネージャとして奮闘してくれたクリモ( Krimo Semmond)とは退職後も交流を続けている。

社内組織改革の困難さを痛感

当時のザイリンクスは、社員150名以上からなる分割された組織構成であった。個々の部門長はXilinx本社の部門長に直接報告する体系になっており、社内間の疎通は欠如し、部門間の相乗効果は発揮出来ていなかった。

私は社内組織を統一すべき、幾つかの策を施した。手始めに営業部の改革を仕掛けた。遺憾ながら、営業部のベテラン社員の抵抗に合い、組織改革は遂行出来なかった。2年以上に渡る社内闘争の結果、私自身、人への不信感が募り、心身ともに異常な疲れを覚え始めた。

自宅のリビングルームでは、1人で考え込みながら、ため息をつくことが頻繁になった。自分のリーダーシップが欠如しているのを痛感する日々でもあった。そして、1人で闘うことに限界を感じた。

日本国内において、業績が四半期ごとに顕著な形で数値に反映される喜びと誇りを覚える反面、私自身、大いに反省すべき点がいくつかあった。社内に自分を援護支援する勢力を形成、保持しなかったこと。基本的には、常に1人で奮闘することに集中してしまったこと。営業部に同じ元外資半導体メーカ出身者を多数集結させてしまったこと。業務のパフォーマンスが著しく劣るベテラン営業責任者の同意を得ながら、最終的に解雇出来なかったこと。以上である。

私はある晩、一大決断をし、上司のSteve Hayneに電話で辞職を申し出た。Steveからは一時的にXilinx本社への配属転換を薦められたが、一切断った。私には本来の自分自身を取り戻す時間が必要だった。社会人になり、リーダーとして初めての大きな挫折であった。屈辱感に全身覆われていたような気がした。

私は自分自身に誓った。この挫折感を克服し、心身とも強くなって必ず半導体業界に戻って来ると。そして2002年12月末付けでザイリンクス株式会社を退職した。

(次回は10月11日に掲載予定です)

著者紹介

川上誠
サンダーバード国際経営大学院修士課程修了。1979年 Intel本社入社。1988年ザイコ―ジャパン設立以降、23年間ザイログ、ザイリンクス、チャータードセミコンダクター、リアルテックセミコンダクターなどの外資半導体メーカーの日本法人代表取締役社長を歴任。そして2012年ハーバード大学特別研究員に就任