【連載】

テレビ・ワンシーン考現学

22 「繰り上げスタート」を待望しているかのような駅伝中継

22/23

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ドラマにありがちなシチュエーション、バラエティで一瞬だけ静まる瞬間、
わずかに取り乱すニュースキャスター……テレビが繰り広げるワンシーン。
敢えて人名も番組名も出さず、ある一瞬だけにフォーカスする異色のテレビ論。
その視点からは、仕事でも人生の様々なシーンでも役立つ(かもしれない)
「ものの見方」が見えてくる。
ライター・武田砂鉄さんが
執拗にワンシーンを追い求める連載です。
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私は駅伝が苦手だ

駅伝が苦手だ。こう申し伝えるだけで、8割の人が私のもとを去っていくだろう。残りの2割は話を聞く態度は示してくれても、最終的に「だよね」と同意してくれるのは1割に満たないかもしれない。我が実家はとにかく年始の駅伝が好きで、花の2区だとか山の神だとか、テレビの実況アナが連呼してくるフレーズを素直にそのまま連呼し、晴れ渡った箱根を見ては「天の神は山の神の味方をしてくれた」などと、あちこちの宗教観がぐらつくような発言をドヤ顔で漏らし続けてきた。

実際に2度ほど、その現場に連れて行かれたこともある。選手たちが通る道沿いにあるファミレスに数時間前から入店し、モーニングセットを食べながら選手の到着を待つ。そうしないと走るランナーの近くに駐車することができないからだ。ホットケーキの上にシロップでドラえもんもどきを描いたりして時間を潰すのだが、ホットケーキを食べた後は、選手の到着を待つしかやることがなくなる。次第に興奮が高まってくる父母兄と、次第に興奮が消え失せていく弟(私)の温度差が生まれ、「あ、会計しちゃったら、車も出さなきゃいけなくなるんじゃない? オレが中で待ってようか?」と醒めた見解を伝えると、「信じられない」と家の神が怒り出す展開が待っていた。

こちらにだけ、特別な感動が芽生えない

結局、発熱した子供が病院に連れていかれているような気怠い顔で沿道に引っ張り出されたのだが、その辺りはわざわざ遠方から見に来ているハードコアなファンが揃っている場所で(確か5区の序盤)、田中やら佐藤やらシンプルな名前だというのにランナーの名前と大学名を一致させており、「まず前提として私は駅伝が苦手でして……」などと言い出そうものならば、配られている旗の棒部分で小突かれそうな高揚感に満ちている。

これはもうこの場の法規に従ってしまおうと駅伝選手が通りかかるたびに配られた旗をパタパタ振ってみるのだが、線の細い小柄な学生が立て続けに走り抜けていく光景に、特別な感動が芽生えない。特別な感動が芽生えないのは、こちらの心がそもそも汚れているからと自らを責めてもいいのだが、その直前にファミレスでドラえもんもどきを描いていた時、シロップがイイ具合にドラえもんのヒゲっぽく垂れていった瞬間には特別な感動を覚えていたのだから、感受性はそれなりにある。ならば、ここで心が動かないことについて、自分で責め立てるのはなかなか理不尽ではないか。

日常生活では見られない異次元っぽさが低い

スポーツって、そんなに興味を持っていないスポーツでも、実際の現場で観てしまうとそれなりの迫力に圧倒されることが多いのだが、駅伝はそれに該当してこない。なぜかといえば、どんな街中でも、それなりの恰好で本格的にジョギングしている人がそこらじゅうにいるからで、「走っている人の中でもトップの人」という光景って、「圧倒」には変わりにくいのである。

日頃、赤信号に変わりそうなタイミングでヘディングする人とか、歩道橋の上でライトフライを獲っている人が頻繁にいるならば、サッカー場や野球場でのプレイにも圧倒されないだろうが、駅伝やマラソンって、日常生活では見られない異次元っぽさがどうしても低い。スポーツに対するこういった理解がそもそも間違っているのだろうが、みんな走ってる、の延長に、特別な「走る」をセッティングできないのである。

ワイドショーに招かれる優勝校チームの学生が真面目

こういう考えの持ち主が駅伝を見ていると、駅伝とは突出して感動するスポーツであるという前提というか強制というか、とにかく流せる涙は年始から流しておこうぜと視聴者と放送局が結託する感じが受け付けられない。何かしらイレギュラーな要素(直前のケガ、近親者の訃報、ライバル関係、涙を飲んだ昨年)を見つけては、各ランナーに物語を盛り込んでいくあの感じ。

同じような髪型でファッションも代わり映えしない女子大生などを「量産型女子」と呼ぶらしいが、駅伝ランナーほど量産型に見える人たちも少ない。体の絞り込み方が基本的には一緒だから体型に差は出ないし、ヒゲ面や長髪やガリ勉眼鏡がいるわけでもない。見た目は闘争心が薄めの男性達ばかりだ。駅伝の翌日にワイドショーに招かれる優勝校チームの学生は、おおむね緊張で身を固くしており、やけに場慣れした監督がユーモアをいくつか放ることでようやく笑顔がこぼれ始める。人口分布からいって何ら特徴的ではないが、10人に1人くらいは辛うじてムードメーカーがいて、その手の1人が監督をイジり始めたくらいの段階でやっとこそさ「もろもろ無礼講でも大丈夫」という空気が全体に波及していく。サッカーや野球選手に比べても、確実にエンジンのかかり方が遅い。

「繰り上げスタート」というキラーコンテンツ

この生真面目さが感動の物語を約束してくれる側面はあるだろう。そんな10人でつないだ「襷」だからこそ、そこで物語が一本化する。高校サッカーのグラウンドを覗けば、少年マンガに出てきそうな何かと造形がパーフェクトなストライカーと、野獣のようなディフェンダーがいる。おとなしそうなサイドバックもいる。こういう状況下では物語が拡散する。一本化できない。野獣ディフェンダーからパーフェクトストライカーへのボール回しは息ピッタリだが、物語の置きどころが難しくなってくる。

それにひきかえ、襷の物語は画一的だ。この画一が、正月によく似合う。変わらぬ正月を喜ぶように、駅伝が作り上げる物語ってずっと変わらない。安穏としているだけではない。お察しの通り、駅伝には「繰り上げスタート」というキラーコンテンツがある。襷をつなぐ物語を残酷にぶった切る繰り上げスタート。もうすぐそこまで来ていても規定時間を過ぎれば、無慈悲に代替用の襷で走り始める。ところで、なぜ、代替用の襷は見せしめのようにシンプルな襷なのだろう。同じものを用意すればいいではないか……と親に提議したのはかなり若かりし頃。それでは、物語が伝わりにくいのである。物騒な言い方だが、私たちの多くは「繰り上げスタート」を待望している。

「止めたほうがいい」という申し出が非道とされる

細い体に異変が生じ、体がフラフラになろうとも、襷をつなぐために走ろうとする。繰り上げスタートになっていたとしても、それを知らない彼は、今にも倒れそうになりながら中継所を目指す。その状態だと、そのまま垂直に倒れる可能性だってあるわけで、となれば命の危険性すら出てくるわけだが、そういう方向の忠告をする人はいない。襷をつながなければいけない、という物語が、あらゆるエビデンスを上回っていく。2日間合わせて200人も走れば、どこかで誰かがブレーキする。カメラはそんな彼を見つけては、追いかけ回す。気を失いかねない危機的状況にあるのに、「さぁ、この襷をあと15分以内に届けることができるのか!?」という規定の物語が優先されてしまう。

見に行ったときに遭遇したわけではないが、ファミレス滞在希望の我が頭は「こんなに苦しんでいるなら、もう止めたほうがいいのでは」と真剣に思う。でも、この申し出は何故だか「非道」という判断を下される。人がそこで倒れそうになっているのだ。ならば、彼を助けてあげたほうがいいのでは、と提言することが、駅伝好きからは、人の道を外れていると判断されるのである。確かにテレビ中継を見ていると、ここで止めるという選択肢は露ほども提言されていない。箱根を走る彼らにしても、これまでも苦しみながら走り抜いたランナー達の映像を見てきただろうから、止めるという選択肢は用意されない。

夕陽が差し込む部室に襷が置いてある構図

万が一リタイアしてしまった場合、繰り上げスタートになってしまった場合、その様子は、どこそこの宇宙センターからロケット発射が成功した時の映像ばりに繰り返し放送される。○○大学の○年生の○○がリタイアしたという情報は、下手すれば、区間新をとった選手よりも繰り返される。そのリタイア選手は翌年も事前のドキュメンタリー番組などで重宝されることになる。

チームメイトに申し訳ない気持ちでいっぱいと語る彼と、彼をチーム一丸となって励ましてきたみんな。「もう止めたほうがいいのでは」と、どう考えても正しい見解を向けていたこちらは、「非道」という判断を下され続ける。リタイアとまではいかずとも襷を渡すことができなかったことを悔やんでいるランナーも同様に扱われる。そのうちに、夕陽が差し込む部室に襷が置いてある構図の映像がじっくりと差し込まれ、昨年の無念を今年こそ繋ぐ、といったナレーションが被さる。

つまり、駅伝って、言論の自由が封殺されている

ざっくばらんな場では、スポーツって、個人の好き嫌いで語られる。ラグビーについて「前に進んでんのになんで後ろにパス出すの」という認知程度で嫌いと語ってしまっても構わない。「そっちこそ、点が入るたびに男同士でハイタッチしてるのがキモい」程度でバレーボールを嫌っても構わない。それが、ざっくばらんな場での好き嫌いってもの。でも駅伝は、そういうざっくばらんな場でも、好き嫌いではなく、善し悪しの「善し」のみで語れ、と定められている。こちらは「悪し」ではなくて「嫌い」と申し上げているのだが、たちまち「善し」側から「悪しとは何だ」と凄まれる。テレビが駅伝というシステムをがっちりとストーリー仕立てにしてきた結果、もう異論なんて寄せ付けない土壌を築き上げた。つまり、駅伝って、言論の自由が封殺されている。だから駅伝が苦手なのだ。

<著者プロフィール>
武田砂鉄
ライター/編集。1982年生まれ。2014年秋、出版社勤務を経てフリーへ。「CINRA.NET」「cakes」「Yahoo!ニュース個人」「beatleg」「TRASH-UP!!」「LITERA」で連載を持ち、雑誌「AERA」「SPA!」「週刊金曜日」「beatleg」「STRANGE DAYS」等で執筆中。近著に『紋切型社会 言葉で固まる現代を解きほぐす』(朝日出版社)がある。

イラスト: 川崎タカオ

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インデックス

連載目次
第23回 ドラマの最終回をグダグダにする「あれから○年後」
第22回 「繰り上げスタート」を待望しているかのような駅伝中継
第21回 青春ドラマのエンディングは、とにかく無人駅で見送る
第20回 トイレで愚痴る部下は、個室に入っている女上司に気付かない
第19回 「ここからはカメラ止めてください!」の仕組み
第18回 うっかり映り込んでしまったADを擁護する
第17回 「思わず寝坊してしまった!」を考察する
第16回 衛星中継の回線の不安定さが一向に改善しない
第15回 24時間走ったマラソンは、必ず放送時間ギリギリにゴールする
第14回 負けてしまったのに1人だけ涙しない高校野球児
第13回 夏到来を知らせるBBQ映像との向き合い方
第12回 ラブシーンは家族団欒を壊し続けてきた
第11回 素人さん改造計画は、アフターよりビフォーのほうが魅力的
第10回 スポーツ中継で映る、控え選手の表情について
第9回 主演俳優による番宣がいつまでも上手くならない問題
第8回 殺人犯の普段を知る隣人のドアの開け方
第7回 海外へ飛び立つ直前に「本当の気持ち」に気付くドラマ
第6回 「プライベートでは全く気付かれません」発言は繰り返される
第5回 街歩き番組の「偶然立ち寄った」設定に翻弄される商店街
第4回 帰国ラッシュの映像はいっつも同じである
第3回 「名脇役逝く」の基準を決めるのは誰なのか
第2回 「悲しいニュース」への切り替えが上手くないキャスター
第1回 「突然の雨」はドラマの場面転換としてさすがに使われすぎている

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