アマチュアで写真を楽しむのなら、お気に入りの写真だけを集めてまとめればいい。しかし、写真家として世界観を伝えるポートフォリオを作る場合は、「見てもらうこと」を意識なくてはいけない。ポートフォリオ編の最終回は、見る人を意識したまとめ方について。

見られることを意識した「見た目」

ポートフォリオにとって、見た目は本当に大事だよ。よく、「中身がよければいい」と言う人もいるけど、角に折り目や汚れが付いていたり、適当な製本で上下左右がガタガタに綴じられたりしていたらやっぱりダメ。どんな美人でも、だらしのない格好で目の前に現れたら興ざめだよね。見られるためには、きちんとやり通すこと。別にお金かける必要はないけど、見られることを意識してほしい。見た目で作者が作品をどれだけ大切にしているかがわかる。僕たち審査する側は、ポートフォリオ全体の完成度を見ている。だから、100円ショップで売っているようなクリアファイルに作品を入れるのはやっぱり良くない。クリアファイルのプラスチックの表紙は安っぽく見えてしまうし、透明度が低いから写真がきれいに見えないんだ。ファイルを使うのであれば、透明度の高い写真専用ファイルを使うべきだね。

だけどやりすぎも考えものだ。広告関係の人など、黒革の大きな立派なファイルを持ってくる人もいるけど、これもあまりお勧めできない。中の写真と外観が合っていないことが多いし、ゴージャスすぎて見ている方が引いてしまう。本当は自分でしっかり製本したり、表紙も工夫した手作りのものが望ましい形だと思うんだ。自分のできる範囲でコントロールして、ポートフォリオの形を決めていってほしい。身の丈にあった形を決めていくことが、本当の意味で見栄えがよくなることに繋がる。市販の写真用ファイルを使ってもいいんだ。だけど、カバーを作ってみたり、表紙のレタリングに凝ってみたり、一工夫するだけで全く違うものになる。タイトルのフォントとかロゴとかも、グラフィック・デザイナーの仕事を参考にして、こだわりが見られるポートフォリオを作ってほしいね。

「隠し味」について考えてみよう

いいポートフォリオや写真集には、内容をより良く見せるための「隠し味」がある。隠し味だから、あまり表に出すぎてしまってはいけない。コンセプトや自分の見せたい部分をよく考えて、効果的な形でさりげなく裏方的な役割で使おう。よく「隠し味」の例に挙げるのが、佐内正史の『鉄火』(2004年 青幻舎)に出てくる円が放射線状に重なった形、手裏剣のようなオブジェとか、女性の丸眼鏡とか、観覧車とか、何度も登場してくる。この形が何の意味を持っているのかは、佐内自身にもよくわかっていないように見えるんだけど、何か別の世界への扉を開く「鍵」のような役目を果たしているようにも思えるんだ。この形が何度も出てくることで、写真集全体に視覚的なリズムが生まれてくる。写真をまとめるときは、見る人が読み解くための鍵(隠し味)と、鍵を回して扉(本当の意図)が開かれるような仕掛けを作っていくといいね。良い写真集には、たいてい隠し味があるものだ。読者が読み解く楽しみを考えて、作者には隠し味をぜひ作って欲しいね。

隠し味を作ることで、撮影スタイルが作られる場合もある。ティルマンスの写真には、よく「脱ぎ捨てられたものたち」が出てる。脱ぎ捨てられた服とか靴下は、床やベットに散らかっていて、そのたたずまいが非常に空虚な感じなんだ。けど、そこにいる人のぬくもりとか存在感が散らばり方に宿っているし、その散らばっている様子が非常に現代的な印象を受ける。あたり前に見える風景の中でも、奇妙に印象的な存在感がある。ティルマンスは、はじめはなんとなく撮り始めたと思うけど、そのうち「これを撮っておけばおもしろいだろう」と気が付いて積極的に撮るようになったのだと思う。そのうち、「脱ぎ捨てられたもの達を撮ろう」と意志を持って、見つけたら必ず撮るスタンスになる。写真集をまとめるときに、効果的に見せるための方法を考えて、いろいろなシリーズの中にそのイメージを散りばめ始めるんだ。ティルマンスに限らず、写真を撮っている間に、いろいろな面白いものに気がつくはずだ。つまり、写真家はいつでも「気づいたこと」の質が問われているんだ。

佐内正史 『鉄火』 2004年 青幻舎

初めて見たものが一番強い

これは当然だけれども、「今まで見たことない」と思わせる写真が強い。どこかで見たような写真は、頭のどこかで元ネタの写真を思い浮かべて比較してしまう。そういう作品を、純粋に評価することは逆に難しいね。いろいろな写真家が様々なことをやって作品を発表してきたのだから、どうしても「初めて見たような作品を作ることは本当にできるのか?」と思ってしまいがちだ。「すべての方法はやり尽くされてしまって、撮るものがないんじゃないか」という話をよく聞く。だけど、何度も言っているけど、決してそんなことはないはずだ。

まず、時代が変われば風景も環境も変わるから、世界の眺めはまったく変わってくる。さらに世界中に何億人という人がいろいろな経験をしているけれど、受け止め方はそれぞれ違うはずだ。それぞれ違う受け止め方をするのなら、作品を発表するやり方も変わってくる。荒木経惟さんがよくいうように、同じようなことを考える人は世界中で5人くらいいるかもしれない。でもそれを本当に実行して形にすることはほとんどない。その5人のうち、実際に作品を作る1人になって、かっこいい作品を作ることは充分に可能だ。同じテーマを扱っていても、作者が違えばぜんぜん違う写真になる。自分の可能性を、もっと信じてもいいと思うよ。「自分が作ればユニークなものを創れるんだ」と自信を持っていないと、表現者としてやっていくのは難しいんじゃないのかな。

「笑わせる」ということ

最近、「笑わせる」ということが、すごく大事だと感じるんだ。笑いについて考えてみると、「常識を壊す」、「固定観念を崩す」ということだと思う。作品を作り続けると、作り方や被写体の見え方など、固定されたシステムができてしまう。見ている側も、先入観で同じ見方になってがんじがらめになってしまっていることが多い。笑いが取れる作品は、そんな閉塞感を緩めてくれる。だから、自分の作品が笑える写真なのかということを、ちょっと立ち止まって考えてほしい。

真面目な写真がダメという話ではない。真面目な写真でも笑える写真ってけっこうあるんだ。有名な作家の写真集だって、ときどき意表をつくような写真や、思わず笑ってしまうような写真が混じっていたりする。妻の死をテーマにした荒木経惟の『センチメンタルな旅・冬の旅』(1991年 新潮社)だって、悲しいだけではなく、小田急線の中で遺骨を抱えている荒木の写真は本当に彼の悲しみが伝わってきて、見ている方も切なくなるんだけど、その次のページにくる「天才アラーキーの愛妻物語」という中吊り広告の写真で、張りつめた流れの中で見る人の強張りを解きほぐして笑えるようなバランスをとっている。

自己表現ばかり主張した写真ばかりでは、息苦しくなってしまう。クールに突き放す客観性を持った写真を入れることで、緊張感にすきま風が入り笑いを誘うことができる。だから、真面目にやればやるほど笑ってしまうことが多いね。2009年の木村伊兵衛写真賞を取った浅田政志の『浅田家』(2008年 赤々舎)は、やっている本人達はものすごく一生懸命にやっている。浅田自身はもちろん、お父さんもお母さんもお兄さんもみんな真面目な人たち。だけど生真面目にやればやるほど、見ている人の笑いを誘ってしまう。つまり浅田家の登場人物たちには、どこか自分自身を見つめるクールな眼、客観性、批評性が備わっていると思うね。

笑いは、難しく考えないで楽しみながらやることが一番大切だ。自分自身が笑えるか笑えないかを基準に考えてみるといい。また、創っている最中に、周りの人に見せて反応を聞くといいよ。作品を評価してくれる人が周りにいるといいだろうね。家族や恋人、友達でもいいから、自分の作品の理解者がいることは大事だよ。いい写真家は、周りの人間に恵まれていることが多い。1人で表現活動をやっていると、辛いし袋小路に入ってしまいがちになり、作品が強ばってくる。表現活動は孤独な作業だけど、理解者がいるかいないかで、作品の膨らみや豊かさが変わってくる。

写真が好きで撮るだけなら、趣味でアマチュアとして撮り続ければいい。だけど、写真家になるには、目標を決めて制作することが大切だ。「写真家になる」という長期計画も必要だけど、長期計画とは別に短いタームで、中期計画や短期計画として、「コンペに出品する」とか、「展覧会を開く」など半年とか一年の単位で目標を設定して、実行していく必要がある。目標を設定し、実行していかないと、いつまでも実現しないよ。難しく考えないで、まずは小さな目標から決めてみよう。到達点がないと、進む方向がわからないからね。だから写真家になる第一歩として、まずはポートフォリオを作ることを目標にはじめてほしいね。

荒木経惟 『センチメンタルな旅・冬の旅』 1991年 新潮社

浅田政志 『浅田家』 2008年 赤々舎

飯沢耕太郎(いいざわこうたろう)

写真評論家。日本大学芸術学部写真学科卒業、筑波大学大学院芸術学研究科博士課程修了。
『写真美術館へようこそ』(講談社現代新書)でサントリー学芸賞、『「芸術写真」とその時代』(筑摩書房)で日本写真協会年度賞受賞。『写真を愉しむ』(岩波新書)、『眼から眼へ』(みすず書房)、『世界のキノコ切手』(プチグラパブリッシング)、『きのこ文学大全』(平凡社新書)、『戦後民主主義と少女漫画』(PHP新書)など著書多数。写真分野のみならず、キノコ分野など多方面で活躍している。