青山(「エロスあるいはエロスではないなにか」)1968年 東京都写真美術館蔵

13日から東京都写真美術館で日本を代表する写真家、森山大道氏の回顧展「森山大道展 I.レトロスペクティヴ1965-2005/II.ハワイ」が開催される。森山氏は1963年のデビューから現在に至るまで写真界で注目され続け、日本だけでなく海外でも高い評価を得ている。今回はこの日本を代表する写真家「森山大道」について話しを伺うことにした。第一回目は、森山氏の人柄について。

森山大道の素顔

森山大道さんは今年70歳を迎えるんだけど、70歳とは思えないほど現在もなお精力的に活動を続けているね。森山さんは1963年にフリーの写真家として活動を始めるんだけど、当時はとくに若い人たちにすごく人気があった。多くの若者が森山さんの真似をして、森山大道調、つまり真っ黒と真っ白のハイコントラストの写真を撮るようになるなど、影響力がすごく強かった。わかりやすく言うと、現在の佐内正史や川内倫子が出てきたときに、「半径5メートル以内」の日常写真が溢れかえった状況に似ている。当時はそれ以上だったかもしれない。僕は1973年に日大芸術学部の写真学科に入るんだけれども、僕らの世代にとって森山さんは本当に神様みたいな人だった。

僕が始めて森山さんと仕事をしたのは、1990年の『デジャ=ヴュ (deja-vu)』の創刊号だった。作品を使わせてもらい、対談をしたんだ。その前にも何度か会ったことはあったけど、対談は、いってみれば対等に話をしなくちゃいけないから、ものすごく緊張したし、森山大道という写真家について、あらためて写真集をひっくり返したりしてすごく勉強して対談に臨んだ記憶がある。

よく「森山大道とはどういう人か?」と聞かれるけど、ぼくの森山さんのイメージは「彼女」なんだよ。作品を見ると男性的で荒々しくて力強いっていうイメージだけども、本人はまったく違う。非常に繊細で細やかな気を遣う人だよ。ある意味で女性的でもある。作品のイメージからは意外に思うかもしれないけど、ぜんぜん気難しくない。初めて対談をしたときも丁寧に話してもらって、とても気配りのある人だと感じた。また、僕が森山さんに対して書評を書いたり仕事を手伝ったりすると、とても丁寧なお礼の手紙が届くんだ。作品のイメージとまったく違うでしょ? 人柄がすごく穏やかで、森山さんを悪く言う人を聞いたことがない。

しかし、"本当は怖いだろうなぁ"って思うことは時々ある。写真集や写真展で、自分自身で判断を下すときはすごく怖いらしい。これは荒木経惟さんについても言えることだけど、常に最前線で写真の仕事を全力でやっているから、自分の写真については絶対に手を抜かない。一緒に仕事をするときはこちらも緊張感がある。写真に対しては怖い人だけど、基本的には人に気を遣う細やかな人だよ。

森山さんと一緒に若い人の写真を審査することが何度かあるけど、いつも感心してしまう。まず、どんなに下手な作品でもすごく丁寧に講評していくんだ。たとえば自分に似たような作品が出てきても、嫌がらずに淡々と話をする。それと考え方がものすごく柔らかい。森山さんが森山大道的な写真を選ぶのは当たり前だけど、たとえば高木こずえが「写真新世紀」でグランプリを受賞したときも、森山さんが彼女の作品を選んでいる。僕もいいとは思ってたけど、グランプリにまで押す勇気はなかったのでびっくりした。自分の写真の撮り方にはこだわり続ける頑固なところもあるけど、人の作品についてのものの見方は柔軟な人だね。

森山さんの繊細で人に気をつかう人柄というのは、写真にもよく現われている。彼の写真は黒と白のコントラストが強くて、一見荒々しく見えるけど、とても細やかな神経によって支えられている。実は撮影でもプリントでも難しいことやっていて、そこに至る過程を省略してしまうと、ただのスカスカした雑な写真にしかならない。そこが一番難しくてわかりにくいところかもしれない。70年代に森山さんは鬱病になるほどスランプに陥ってしまうんだけど、神経が繊細でなくちゃそこまで自分を追い詰められないよ。

森山大道氏について語る飯沢耕太郎氏

飯沢氏が初めて森山氏と仕事をした『デジャ=ヴュ』創刊号。飯沢氏が編集長を務めた季刊写真誌であり、質の高い多数の写真と評論により同時代の写真の動向を伝えた

一貫して変わらない写真の方法論

森山さんは、大阪にある岩宮武二のスタジオでアシスタントに入って、そこで写真家としてのいちばん基本的な技術を学ぶことになる。先輩アシスタントに当たる井上青龍の影響を強く受けたらしいね。井上はその当時、大阪の釜ヶ崎で労働者のたまり場などに深く入り込んで、生々しいドキュメンタリーを撮っていた。森山さんは井上に惹かれて路上を歩いてスナップする楽しさ、面白さに目覚めていく。そして岩宮スタジオのアシスタントを1年ほどで辞めて、東松照明、奈良原一高、細江英公らが1959年に結成した写真家集団「VIVO」に参加するために上京するんだ。

しかし、上京したときにすでにVIVOは解散していて、森山さんは細江英公の助手になる。そこで三島由紀夫をモデルにした細江の写真集『薔薇刑』(1963年)を担当するんだ。この作品は高度なプリントワークを駆使していて、森山さんの暗室技術は細江の助手時代に徹底的に鍛え上げられたんだろうね。

スナップ撮影での街を歩いていると何が出てくるかわからない面白さは、暗室作業でも同じことがいえる。プリントワークは森山さんの制作にとって、写真が生まれ変わる大事な過程なんだ。4号の印画紙でコントラストの強い画像にこだわり続ける美学と、プリントしてみたら予想外の像が現われてくるというせめぎあいで作品を作り上げていく。路上でスナップする楽しさと、スナップしたものを再構成する暗室作業の過程に魅せられて作品を作り続けている。この制作スタイルはデビュー当時から現在まで一貫して変わらない。今でも街も歩き続けて写真を撮っているし、暗室作業も人に任せることなく自分でやっている。

実は森山さんは、写真家を始める前はグラフィック・デザイナーをやっていた。もともとそういう資質があったんだと思うけど、写真でもデザイン力や画面構成力が非常に高いことがわかる。森山さんの真似をする人はたくさんいるけど、デザイン力や画面構成力がないから、絶対に森山大道にはなれない。行き当りばったりに撮っているように見えるけど、それをプリントしたり発表したりする時に、自分のデザイン感覚の中で、非常にうまく勘所をピックアップして提示することができる写真家なんだ。プリントワークにとてもこだわって作品を作っていて、どこを焼き込んでどこを見せていくかを判断する能力が抜群に高い。これはいくら真似しようとしても、彼のレベルまで達するのは難しいね。

森山さんの写真を見て感じるのは、デビュー当時の「ヨコスカ」シリーズや『にっぽん劇場写真帖』から、方法論がぜんぜんブレていないこと。あらかじめ頭の中にあるイメージを持つことを徹底的に拒否していく。寺山修司の"書を捨てよ町に出よう"を言い換えると、"書を捨てて、カメラを持って街に出よう"というスタイルで、出会ったものは手当たり次第に撮っていく。全身をアンテナにして、生理的反応だけで飛び込んでくる被写体を「自分がカメラになってキャッチする」という方法論だね。路上を歩き回って、ノーファインダーで写真を撮ることもある。その写真を最終的にひとつの「群れ」としてまとめて発表していくやり方は、本当にデビュー時から変わらないスタイルだね。

だから森山さんの写真集は、ページめくっていくと新宿の街を歩いて路地裏に入ってみたり、表通りに出てきたり、意外な人に出会ったりと、街歩きがそのまま写真集になったような構造になっている。この、読者を街の中に連れ込んでしまう写真集の構造も、デビュー写真集『にっぽん劇場写真帖』からずっと変わらないね。

僕は森山さんの写真について書くことは難しいと思っている。写っているものは普通の街だし、見慣れたものなんだけど、「こんな見え方があったの?」って驚きがある。写真自身が雄弁に語りかけてくるんだ。説明する前に写真を見て感じたほうが早いから、改めて解説することは難しいんだよ。今回、東京都写真美術館で開催される「I.レトロスペクティブ 1965-2005」と「II.ハワイ」で、写真家・森山大道の全体像は見えてくると思う。初めて森山さんの作品を見る人は、まずあまり先入観を持たずにその世界に浸ってほしいね。

にっぽん劇場 1966年 北

プロヴォークII 1969年

新宿 2001-02年

ハワイ 2007年

飯沢耕太郎(いいざわこうたろう)

写真評論家。日本大学芸術学部写真学科卒業、筑波大学大学院芸術学研究科博士課程 修了。
『写真美術館へようこそ』(講談社現代新書)でサントリー学芸賞、『「芸術写真」とその時代』(筑摩書房)で日本写真協会年度賞受賞。『写真を愉しむ』(岩波新書)、『都市の視線 増補』(平凡社)、『眼から眼へ』(みすず書房)、『世界のキノコ切手』(プチグラパブリッシング)など著書多数。「キヤノン写真新世紀」などの公募展の審査員や、学校講師、写真展の企画など多方面で活躍している。

まとめ:加藤真貴子 (WINDY Co.)