コンピューターというハードウェアを活用するために欠かせないのが、OS(Operating System:オペレーティングシステム)の存在です。我々が何げなく使っているWindows OSやOS XだけがOSではありません。世界には栄枯盛衰のごとく消えていったOSや、冒険心をふんだんに持ちながら、ひのき舞台に上ることなく忘れられてしまったOSが数多く存在するのをご存じでしょうか。「世界のOSたち」では、今でもその存在を確認できる世界各国のOSに注目し、その特徴を紹介します。今回はMicrosoft初のGUI採用OSとなった「Windows 1.0」を取り上げましょう。

Windows以前のMicrosoft

当初のMicrosoftは、さまざまなコンピューター向けにプログラミング言語の一種であるBASICインタプリタを開発・供給するソフトウェア企業でした。そこに米国の巨大コンピューター企業だったIBMからの依頼が舞い込みます。当時のIBMは従来のメインフレームやミニコンピューターだけでなく、パーソナルコンピューターへ食指を延ばし、IBM-PCの開発に乗り出した最中でした。当時の同社が持つ技術力や資金力ならOSの自社開発も可能だったはずですが、割り当てられたスタッフ数と低予算から、ソフトウェア開発を外部に依頼することになります。そこで白羽の矢が立ったのがMicrosoftでした。

だが、当時のMicrosoftはOSをゼロから開発するまでの能力を保持していなかったため、Intel製プロセッサだった8086用OSとしてCP/Mを独自移植していたSeattle Computer Productsと交渉し、販売権利(後にすべての権利)を購入。この際、Bill Gates(ビル・ゲイツ:現Microsoft会長兼Bill & Melinda Gates Foundation共同会長)氏は、Steven Ballmer(スティーブ・バルマー:現Microsoft CEO)氏とPaul Allen(ポール・アレン:Microsoft社の共同創業者。現在は実業家)氏、西和彦(アスキー創業者として有名。Microsoft製BASICの日本国内販売を行うアスキーマイクロソフトを設立し、日本市場の売り上げ割合が1980年には40パーセントに達したことから、Microsoft副社長の肩書きを得た)氏の4人で議論が繰り広げられたそうです。

当初は"ペンキを塗る直すようなことをして良いのか?"という意見も上がったそうですが、この際、強く購入を訴えたのが西氏である、とGates氏は後のインタビューで答えていました。このような経緯でMicrosoftは、Seattle Computer Productsの「86-DOS(別名QDOS)」と呼ばれるCP/MのクローンOSを1980年12月に購入しています。なお、86-DOSの開発者であるTim Paterson(ティム・パターソン)氏は翌年の1981年5月から1年間ほどMicrosoftに勤務していました。

その後のPaterson氏は1982年にMicrosoftを退社し、自身の会社「Falcon Technology」を起業しましたが、1986年にはMicrosoftに買収。その後1988年まで同社に勤め、再び退社しながらも1990年から1998年まで勤めていました。その間「Visual Basic」の開発に携わったのは有名な話です。現在では自身の会社として「Paterson Technology」を設立しました。なお、個人のブログも立ち上げており、投稿数は少ないものの「Paul Allen and I(ポール・アレンと私)」など当時の雰囲気を知り得る記事を多数読むことができます。興味をお持ちの方はご覧ください。

さて、IBMへの納品を終えたMicrosoftは、他社へのOEM(Original Equipment Manufacturer:他社ブランドの製品を製造または企業)供給を行うにあたり、IBMブランドの「PC-DOS」と差別化するため、「MS-DOS」という自社ブランドを採用しました。Digital ResearchのCP/Mが確保していたシェアを奪い取り、MS/PC-DOSの普及を図るため、MicrosoftとIBMが相互利益を踏まえて手を握った例と言えるでしょう。このOEM供給とIBM-PC互換機の爆発的普及が相まって、MS-DOSが握るシェアは大きく成長しました。日本国内ではPC-9800シリーズなどに販売提供され、CUI(キャラクターユーザーインターフェース)上でコンピューターを駆使していた方も少なくありません。しかし、そのとき既に時代はCUIからGUI(グラフィカルユーザーインターフェース)へと移行していました。

MS-DOSがバージョン 2.0をリリースした1983年には、Xerox(ゼロックス)のPARC(Palo Alto Research Center:パロアルト研究所)で開発したAlto(アルト)にインスパイアされ、生み出されたLisa(リサ)が登場しています(具体的には、Alan Kay(アラン・ケイ)氏が提唱したパーソナルコンピューター「暫定ダイナブック」向けのOSとして整備され、後に「Smalltalk-80」として発売された「Smalltalk(スモールトーク)」にインスパイアされたと述べるのが正しいのですが、略すためにAltoと記載します)。Lisaの価格設定を踏まえますとコンシューマー向けとは言い難いですが、GUIを初搭載したパーソナルコンピューターでした(図01)。

図01 Lisa上で動作する「Lisa OS」。Altoの影響を受けて登場した初のGUI採用パーソナルコンピューターです

当時のMicrosoftは商業的に失敗しましたが、Altoを(ある程度ながらも)具現化したXerox Starや、AppleのLisaに衝撃を受けつつも、あくまでもソフトウェア開発会社であるポジションを変えていません。MS-DOSを切り捨てるということは、同社が培ってきた多くの顧客に相反する行為だったからでしょう。しかし、パーソナルコンピューター業界はMS-DOSというCUIベースの限界を知り、既に研究者や開拓者が生み出してきたGUI採用OSを模索していた時期でした。Gates氏たちが思い悩んでいた最中に舞い込んできたのが、Appleからの開発依頼。1981年当時、開発中だったMacintosh向けに一部のソフトウェア開発をMicrosoftに依頼。同社と契約を結ぶことによって、初めてMacintosh試作機を目にしたMicrosoft開発陣は、一層の焦りを募らせました。

ここで生まれた開発プロジェクトが、Windows OSの祖となる「Interface Manager(インターフェースマネージャー)」です。当初はウィンドウやメニューを備えたAlto風のOSを目指しておらず、あくまでもMS-DOSにグラフィカルな機能を追加させようという程度でした。その理由として当時発売されていたコンピューターのスペックは、プロセッサとしてIntel 8086を採用し、物理メモリを256キロバイト未満が一般的。この環境でウィンドウシステムを作り上げるのは至難の業と思われていました。そのため同社は、Interface Managerをランチャー機能を持つ拡張モジュールという位置付けで考え、1982年から開発をスタートさせています。

Interface Manageがランチャーから現在のWindows OSに連なるウィンドウシステムへ移行した理由を述べるのに、VisiCorp(ビジコープ)が開発したVisi On(ビジオン)の存在を避けてとおれません。Visi OnはMS-DOS上で動作するGUI環境ソフトウェアですが、1982年11月に開催されたCOMDEX(コムデックス:コンピューター関連の展示会)で公開されたデモバージョンに業界関係者は驚きを隠せませんでした。Gates氏はIBM-PCではなくVAX(1976年リリースの32ビットミニコンピューター)でVisi Onを動かしているのではないかと疑ったという逸話も残されています。Visi Onのリリースは1983年末まで待たなくてはならず、実行にはHDD(ハードディスクドライブ)が必要だったため、商業的な成功に至りませんでした。しかし、Visi Onの存在が各社のウィンドウシステムを生み出し、後のWindows OSにつながるのです(図02)。

図02 VisiCorpが開発した「Visi On」。現在では簡素な印象を受けますが、シリアルポートに接続したマウスで操作する立派なウィンドウシステムでした