フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)


およばぬ想像

茂吉がレンズや文字盤の研究に取り組んでいたとき、信夫は工場で機械の改良に取り組み続けていた。試作第2号機完成までは、東京高等工芸学校内に借りた研究室で。1926年 ( 大正15 ) 11月末に茂吉の自宅近く、荒川 ( 現・隅田川 ) 沿いの写真植字機研究所の工場が完成してからはそちらの工場に詰めて、機械の改良試作に日々努力を重ねた。

  • 【茂吉と信夫】わずかな食いちがい

    本連載第33回の写真とは別角度から見た、かつての梶原の渡し付近。左側の駐車場あたりに写真植字機研究所の工場があったとおもわれる。( 2023年5月28日撮影 )

研究に没頭していた茂吉が、工場に顔を出す機会は少なかっただろうことは、想像できる。いっぽうの信夫は、茂吉がそんなにもレンズの研究にのめりこんでいる様子をつかみきれていなかったのかもしれない。たとえば東京高等工芸学校で試作第2号機の製作に取り組んでいたときの様子が、馬渡力編・モリサワ発行の『写真植字機五十年』ではこんなふうに綴られる。

〈 石井と森沢は、新しく雇った職人とともに、十四年の十二月から、芝浦に通いだした。といっても、石井は週に一回も顔を出せばよいほうで、やってきてもほとんど鎌田 ( 筆者注:弥寿治 ) の話を聞いて帰った。森沢は石井のオートバイで、毎日通いつめた 〉[注1]

茂吉とて、かんがえることは邦文写真植字機のことばかりであり、彼の抱える課題に日々取り組んでいたのだが、信夫のなかには「石井さんはろくに工場に顔も出さない」というおもいがわずかに生まれていたのかもしれない。

小型オフセット印刷機の製作

実用化に向けて邦文写真植字機の改良に努力を重ねるかたわら、信夫は小型オフセット印刷機の試作にも取り組みはじめた。ふたりが共同事業を始めたとき、「写真植字機が完成したら、それを世に出すまえに自分たちで印刷所をつくり、仕事をする」という構想が契約書に明記されていたため、それに向けてのオフセット印刷機試作だった。

邦文写真植字機の着想を得た際、信夫は最初、写植機で印字した印画紙やフィルムから写真製版で凸版をつくり、活版印刷に組み付けて印刷に使用することをかんがえていた。しかしむしろオフセット印刷に結びつけてこそ、写真植字の将来はおおきいと気づいたことは、彼らが出願した3つめの特許第72286号 ( 1925年8月11日出願、1926年6月14日特許 ) で、目的がそれまでの「印刷用亜鉛板を得ること」から「平版印刷用原版を得ること」に変わったことにもあらわれていた。( 本連載 第28回参照 )

東京高等工芸学校に研究室を借りていたあいだ、信夫ははじめてオフセット印刷を見聞し、実習教官の榎本次郎からオフセット印刷の「いろは」を教わった。そうした知見をもとに、信夫はちいさなオフセット印刷機を設計し、製作した。完成は1928年 ( 昭和3 )、茂吉がレンズの計算を終えた年の12月のこと。書道半紙 1ページ大 ( 半紙判は242×333mm。210×297mmのA4より一回り大きいサイズ ) の印刷ができる、小さな機械だった。さすがにこれでは小さすぎるということで、信夫は続けて、半紙2枚分の寸法が刷れる印刷機を製作した。

  • 信夫が製作した小型オフセット印刷機2種類。( 森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960 p.17より)

写真植字機を利用する印刷所を自分たちで設立する。それであれば、なにも印刷機まで自分たちの手でつくらなくとも、オフセット印刷機を購入すれば済むことだ。しかし信夫は、おおきい印刷機が必要とされるなら、小型のオフセット印刷機も必要なのではないかとかんがえ、みずから製作したのだった ( 実際に「小型オフセット印刷機」が「軽オフセット印刷/軽オフ」と呼ばれて日本で広がりを見せるのは、第二次世界大戦後、昭和20年代以降のことだった。信夫の読みはすこし早すぎたのだ )。[注2]

信夫は自分のつくった小型オフセット印刷機で、写真植字機の印字からいろいろな実験印刷をした。

茂吉はそんな信夫の様子を見て、「写植機がまだ実用化できていないいまの段階で、オフセット印刷機の製作をそんなに急がなくてもよいのでは」とおもっていた。しかし、信夫の意を損ねるような反対はとくにしなかった。[注3]

ただ、写真植字機研究所の経済状態は、かなりの逼迫をみせていた。信夫の小型オフセット印刷機製作もふくめて、写植機開発事業に着手して以来の研究費や材料費、工員の給料は、すべて石井家が営む神明屋の売上と、茂吉の蓄財でまかなわれていた。印刷所の設立と経営など、とてもかんがえられるような状況ではなかったのだ。親戚からの借財はすでに3万円を超えていた。茂吉は、一日もはやく写真植字機の実用化を果たし、収入をあげたいとかんがえていた。[注4]

契約書どおりに印刷所の設立を目指す信夫と、それどころではないとかんがえる茂吉。ふたりの方針は、食いちがいはじめていた。しかし信夫は精力的に、写植機の機構をつぎつぎと改良し、印刷実験にはげむのだった。

(つづく)


[注1] 馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 p.109

[注2] 馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974 p.112-114

[注3] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.100

[注4] 『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.100

【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969
「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975
『追想 石井茂吉』写真植字機研究所 石井茂吉追想録編集委員会、1965
森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
沢田玩治『写植に生きる 森澤信夫』モリサワ、2000
「邦文写真植字機遂に完成」『印刷雑誌』大正15年11月号、印刷雑誌社、1926
「発明者の幸福 石井茂吉氏語る」『印刷』1948年2月号、印刷学会出版部
「発明」編集室編「本邦印刷界に大革命を招来する 『写真印字機』の発明者 石井茂吉君に聴く」『発明』1933年12月号、帝国発明協会
橘弘一郎「対談第9回 書体設計に菊池寛賞 株/写真植字機研究所 石井茂吉氏に聞く」『印刷界』1961年10月号、日本印刷新聞社

【資料協力】株式会社写研、株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影