フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)


手の挙がらない会議

ドイツから届いたMAN社の活版輪転印刷機をめぐり、星製薬の五反田工場では主任会議がひらかれていた。

この印刷機は、高さと幅がそれぞれ3m、長さが4mあまりにもなる大型機のはずだが、バラバラに解体され約30個の箱に梱包されていた。当時、日本でこんなりっぱな高速輪転印刷機をもっている会社は、大新聞社と東京にある1、2の大手印刷会社ぐらいしかなかった。星製薬には、輪転機にくわしいひとがいない。

星は、ずらりと4、50人が並んだ会議室で、出席者たちの顔を見ながらこう言った。
「この印刷機は、薬の効能書の印刷に使うほか、PR紙『家庭新聞』の発行にも役立てたい。そのため、できるだけはやく組み立ててもらいたいのだ。責任者は加藤くんに頼む。吉川くん、下山田くんとともに、組み立ててくれ」

東京帝国大学卒の高級機械技師・加藤完三をチーフに、蔵前の東京高等工業学校出身の吉川国広、下山田秀夫のチームで組み立てよ、そしてこの輪転機を中核として創設する印刷部の主任を加藤がつとめよと星は言うのだった。

しかし加藤は「輪転印刷機は私の専門外です。お引き受けかねます」と断った。
「なんだと。では石井くん、やってくれるか」
同じく高級機械技師の茂吉に、星は主任をまかせようとした。

茂吉は責任感が強く、慎重な性格だ。印刷の専門知識をもつ者もいないのに、印刷機を組み立て、印刷部を立ち上げろという星の発言は、ひどく焦点のぼけた話であるように感じた。納得のいかない仕事を中途半端に受けることはしたくない。自分の気持ちの筋を通し、茂吉も「私も印刷機は門外漢ですので」と辞退した。

「きみたちがやらないとなると、問題だ。だれかやるものはいないか?」
星は一同の顔を見まわしたが、だれも手を挙げるものはいない。星は、床を足で踏み鳴らして激怒した。

「きみたちには、もう頼まん!」
席を蹴って立ち上がり、会議は解散となった。

任された重責

数日後、信夫は社長室に呼ばれた。
「森澤くん、あの印刷機はきみが組み立てろ。そして、印刷部の主任はきみがやってくれ」
「先生、冗談を言われては困ります。私は印刷の『イ』の字も知りません。第一、活字がどちらを向いているのかさえわからないんですから、私にできるはずがありません。だいたい、星製薬には偉いひとがたくさんいるじゃないですか。なぜ私に……」

「命令だ。社内にたくさん人はいるが、だれも引き受けようとしなかったのを、きみも見ただろう。印刷を始めるときには専門家を入れるが、機械の組み立てや新設部署の立ち上げは、外部の人間に頼むわけにはいかない。あの輪転機を組み立てないことには、わが社の印刷部は活動を始めることができないのだ」
「どうしても、ですか?」
「どうしてもだ」

信夫はあまりの難題に途方にくれたものの、自分に一縷の望みを託してくれた星を見て「いちかばちか、やってやれ」という気持ちにもなっていた。
「……わかりました」
わずかな沈黙のあと、信夫はうなずいた。

星は頬をゆるめた。
「もちろん、きみが輪転機をわからないことは百も承知だ。同じような機械が大阪の朝日新聞にあるから、当分のあいだ見学し、勉強してきたまえ」

こうして信夫は、星の書いた紹介状兼依頼状をもち、大阪にある朝日新聞の工場に、工務局長の小西作太郎をたずねた。温厚な小西は「ようこそ」とこころよく信夫を迎え、自由に機械が見られるよう、配慮してくれた。約半月のあいだ、信夫は毎日、工場に足を運び、輪転機を見学した。印刷機を見るのは初めてのことだった。

築かれた紙の山

信夫は機械いじりが好きだったが、専門の教育を受けたわけではない。ドイツ製のこの輪転印刷機には、設計図すらついてこなかった。完成品を両側面から写した写真が2枚添えてあっただけなのだ。とても素人の手に負えるものではない。

輸入商社のイリス商会 [注1] は心配して、「ドイツから専門の技術者を招聘しましょうか?」と星に言ってきた。信夫のような若僧に任せるなんて、無茶だと思ったのだろう。しかし星は笑って、「なあに、修業のためにやらせているのさ」と答えるだけだった。

組み立ては困難をきわめた。何人かの技術者が信夫に協力した。みな信夫よりも高い学歴のある、機械の専門家ばかりだった。信夫は彼らとたびたび口論をした。両者の意見は、いつも正反対だった。技術者たちは信夫を素人と見て、言うことを聞こうとしなかった。

「この仕事の責任者は、私です。たとえ機械が壊れようと、私の意見に従ってください」と信夫が言うと、技術者たちは「なんだと、生意気な!」と信夫を殴った。周囲からも、「あんな若僧に組み立てられるものか」と嘲罵の声が浴びせられた。しかし信夫は、決して自説を曲げることはなかった。

年が明け、1924年 (大正13) 2月になったころ、とうとう機械が組み上がった。信夫は、輪転機と一緒にMAN社から送られてきたステロ版をとりつけ、インキを入れると、中井商店 (現・日本紙パルプ商事) から買い入れてあった巻取紙をセットした。いよいよ試運転である。

  • 印刷機組み立て中の森澤信夫(左前)(沢田玩治『写植に生きる 森澤信夫』モリサワ、2000 p.31より)

信夫が始動ボタンを押すと、機械は轟々と音を立ててまわりだした。印刷され折られたドイツ語の印刷物が、輪転機の排紙部分に積み上がり、みるみるうちに紙の山となった。

「星先生! 輪転機がまわりました!」
息をはずませて信夫が知らせにいくと、星はすぐさま飛んできた。そして機械の排紙部分に築かれた紙の山を見て、「なんだなんだ、紙をむだづかいするな!」と怒鳴った。しかしその顔は笑っていた。
「よくやってくれたな」

星はあらためて社長室に信夫を呼ぶと、彼の努力を賞賛した。そうして、褒美に洋服を一着つくってくれた。輪転機の輸入元のイリス商会からは、感謝のしるしとして20円が信夫に贈られた。

MAN社の輪転印刷機が届いたのは、石井茂吉が星製薬に入社した後だから、10月半ばから11月はじめごろのことだろう。信夫はその後、約半月のあいだ、大阪の朝日新聞で機械の見学をしているので、組み立てに着手したのは11月初旬からなかばごろのことだろうか。だとすれば、2カ月半から3カ月弱ほどで、輪転機を完成させたと考えられる。いくら機械好きとはいえ、専門教育を受けていない素人である。機械に対する信夫の能力がうかがい知れる出来事となった。

昇給辞令

印刷関連の機械としては、輪転機のほかに、MAN社のドライマットプレス (活字組版から紙型をとる機械) や、1色刷りと2色刷りのシーリング印刷機各1台が買いこまれていた。金属活字や必要な道具、機械が集められ、星製薬工場の一角に、大規模な印刷工場が誕生した。

シーリング印刷機は、薬品の瓶や箱に貼る封緘紙を印刷し、打ち抜く機械だ。それに用いる抜き型も、信夫はつくってみた。彼のつくった型は、本職の業者がつくったものよりも長持ちしたため、業者は信夫のことを素人とは信じなかった。

信夫の給料は、1924年 (大正13) の1月に80円から90円に昇給していた。学歴もなく、そのときはまだ輪転機もぶじに動く前で、破格の金額だった。家出同様に明石の実家を飛び出してきた信夫は、そろそろ両親を安心させなくてはと思い、この昇給辞令を明石に送った。

受け取った両親は、驚いた。学士様でもないのに、なぜこんな給料をもらっているのか。そこで両親は本所深川警察署で署長をつとめる森澤耕治に、信夫の様子を見に行ってもらった。本当に90円の月給をもらっているのか、調べてくれというのだ。

信夫の年齢では、当時、30円から40円が給料の相場だった。信夫の両親は、まだ若僧なのにあまりに給料が多すぎておかしい、と思ったのである。

  • 星製薬の昇給辞令 (森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960 p.6より)

ある日、星製薬の五反田工場で、信夫は星から呼び出された。顔を出すと、そこに本所深川のおじがいた。信夫は実家を出るとき、「自分のことは自分で始末するから」と言って飛び出してきた。だから会社には、東京にはだれも知人がいないということにしてあったのだ。

「こんなおじさんがいるのに、なぜいままで黙っていたんだ!」
星が信夫を叱るという一幕もあった。

信夫の昇給は、それまで決まった部署に所属していなかった彼が、印刷部の創設に向けて、だれも引き受け手のなかった輪転機の組み立てに取り組んでいる、その姿勢に対してのものでもあったろう。そして実は、星製薬は1923年 (大正12) 9月1日の関東大震災後、営業成績がむしろ上半期を上回り、震災で困っている従業員もあるだろうと、一律に2割程度の昇給をおこなっていた。[注2] もともと80円の高給をもらっていた信夫も、これによって90円に昇給したと考えられる。

ともあれ、ぶじに輪転印刷機を完成させた信夫は、印刷部の主任に就任した。

(つづく)


[注1]  現・株式会社イリス。ドイツ・ハンブルクに本社を置く、ドイツからの輸入機械を扱う専門商社。 (2023年2月25日参照)

[注2] 星新一『人民は弱し 官吏は強し』新潮文庫、1978/初出は文藝春秋、1967 p.149

【おもな参考文献】
『石井茂吉と写真植字機』(写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969)
馬渡力 編『写真植字機五十年』モリサワ、1974
森沢信夫『写真植字機とともに三十八年』モリサワ写真植字機製作所、1960
産業研究所編「世界に羽打く日本の写植機 森澤信夫」『わが青春時代(1) 』産業研究所、1968 pp.185-245
沢田玩治『写植に生きる 森澤信夫』(モリサワ、2000)
星新一『人民は弱し 官吏は強し』新潮文庫、1978/初出は文藝春秋、1967
大山恵佐『努力と信念の世界人 星一評伝』大空社、1997/初出は共和書房、1949

【資料協力】
株式会社写研、株式会社モリサワ
※特記のない写真は筆者撮影