プロの研究の深淵

話はいったん△6二玉が指される直前まで戻る。

控室の興味は△6二玉が指された場合、豊島七段が▲3三角成△同桂▲2一角の決戦策に踏み込むかどうかに集中していた。以下はその時の船江五段の話。関西弁のイントネーションで読んでほしい。

「角打つと思いますよ絶対に。凄く研究してましたから。僕その研究を教えてもらったことがあるんですよ。▲2一角に△4四角▲3二角成△2六角▲2二馬△4四角……。あー、もう忘れてしもうた。こんなことならもっと真面目に聞いておくんやった」(船江五段)

と、船江五段は後悔していたが、実際はもう少し先の変化まで教えてくれた。

「でもこれ、ほんの一部で。実際は50手ぐらい先まで変化を見せてもらったんです。しかし覚えとらん……」(船江五段)

現在のコンピュータ将棋は、1秒間に数百万~数千万手を読める。しかし、それでも読み進められるのは10数手から20手ぐらいが限界だという。それを豊島七段は50手先まで研究していたのだ。それも5%の確率でしか実現しない局面をである。プロの研究の深淵を覗いた気がした。

その研究の結論について船江五段に重ねて聞いた。

「それは分からないみたいです。50手読んでも結論は出ず、難しいと言っていました」(船江五段)

△6二玉はプロなら絶対指さない手。一部には△6二玉を指した時点で勝負は決まっていた、という意見もあったが、50手先まで研究しても結論が出ない以上、致命的な悪手ではなかったことは確かだろう。形勢が動くのはもう少し先だ。

控室には関西の若手実力者、糸谷哲郎六段も来訪した。あべのハルカスの広さにかなり迷って遅くなってしまったという

豊島七段がリードを奪う

豊島七段が角打ちに踏み込んだ直後の一手が重要な分岐点だった。本命と見られ、豊島七段も深く研究していたのは△4四角だ。だが、YSSが指したのは△3一銀だった。

図5(26手目△3一銀まで)

△3一銀という手については、後日某プロ棋士に話を聞く機会があった。

「△3一銀が悪手とまではいえませんが、△4四角のほうが先手が忙しい局面になり、一手も緩まずに攻め続けなければいけないので大変なんです。△3一銀で先手が指しやすい展開になったと思いますね」(某プロ棋士)

終局後に豊島七段が語ったところによれば、練習将棋でYSSが△3一銀を指したのは1回だけだったという。YSSがうまく相手の研究を外したとも言えるのだが、そもそも計算で最善手を見つけ出しているはずのコンピュータがなぜ、同じ局面で違う手を指してしまうのだろうか。

ランダム性のリスク

そこには、今回のルールが影響している。コンピュータ側は事前にソフトをプロ側に提供し、本番ではそのソフトのままで戦う、というのが今回から適用された新ルールだ。すなわち、常に同じ局面で同じ手を指していると、プロ側に徹底的に研究され、必勝手順を見つけられてしまう恐れが高いのである。

その対策のひとつが、コンピュータの指し手の選択にランダム性を持たせることだ。もっとも点数が高くなる手を常に選ぶのではなく、あえて2番手、3番手の候補手を選ぶこともあるように設定し、相手に研究の的を絞らせないようにするのである。

だが、最善手以外の手を選ぶことには当然リスクがある。もちろん、いつでもランダムに選ぶという設定ではないだろう。おそらく「最善手との評価値の差が○○点以上あるときは、その手を選ばない」というような制限はかけられているはずだ。だが、そういった制限がかけられていても、最善手以外を選ぶリスクが高いのが横歩取りという戦型だ。

将棋には「選択肢の広い局面」というものが存在する。いくつかの候補手があって、そのどれを選んだとしても、その後の展開が変わるだけで形勢にはさして影響しないという局面だ。その逆に、正しい手以外を指すと途端に悪い流れに入ってしまう局面も存在する。横歩取りのような、いきなり激しい戦いに突入する将棋は、そうした「選択肢の狭い局面」が多いのだ。

序盤の△6二玉や△3一銀の局面は、まさに選択肢の狭い局面だったといえよう。横歩取りという戦型と、指し手のランダム性の相性の悪さ、これが今回YSSが苦戦に陥った大きな要因だったのだ。