インフラツーリズムとは、公共施設である巨大構造物のダイナミックな景観を楽しんだり、通常では入れない建物の内部や工事風景を見学したりして、非日常を味わう小さな旅の一種。
いつもの散歩からちょっと足を伸ばすだけで、誰もが楽しめるインフラツーリズムを実地体験し、そのすばらしさを共有することが本コラムの目的だ。
今回は首都圏最大級のダム、神奈川県の山間に位置する「宮ヶ瀬ダム」の探訪記である。
思わずあの映画の名シーンが頭に浮かんだ観光放流
2024年9月某日、日曜日の昼下がり。
人々が見つめる先は、眼前にそびゆる巨大なコンクリート壁に設けられた二箇所の放水口だ。定刻の数分前になると、間もなく放流を開始する旨を告げるアナウンスが流れた。
使い古した容器を打ち鳴らし、その時を待ちわびる薄汚れた群衆は一瞬鎮まり、人々から滲み出るはち切れそうな期待感が、渦となって場を包んでいく。
「く、来るぞ……」
誰からともなく、支配者である彼の名を呼ぶ声が起こり、そこにいるすべての人による大コールへと変わっていった。
「ジョー! ジョー! イモータン・ジョー‼ ジョー! ジョー! イモータン・ジョー‼」
放水口から2匹の白い大蛇のような清流がするすると奔出し、ほどなくドドドーという轟音を伴う激流へと変わった。
歓喜と殺気が入り混じる群衆は、我先にと落水地点へ詰めかけ、今日から数日間の命を繋ぐための水を得ようと争うのだった……。
というのはもちろん嘘で、宮ヶ瀬ダムで定期的に行われる放流を見るために集まっていたのは、薄汚れた死にかけの群衆ではなく、楽しげで幸せそうな観光客たちである。
人々が掲げていたのは使い古しの容器ではなく、放流を撮影するためのスマホだし、立ち入りを制限された先に放流される水に触れられるわけもない。だけどこの瞬間に、あの映画のあのシーンを頭に思い浮かべていたのは、きっと僕だけではないはず。
宮ヶ瀬ダムで4月〜11月の毎週水曜日、第2・第4金曜日、第2日曜日(および不定期なイベント放流日)の午前11時と午後2時に行われる観光放流。
毎秒30立方メートルもの大量の水が、6分間にわたって目の前を流れる様はまさに見ものである。放流はあくまで観光用のものであり、発電や水量調整といった、ダム本来の目的を伴うものではない。
プログラムどおり6分間で放流がピタリと止まると、集まった人々は皆、「すごかったねー」と満足そうな表情を浮かべ、その場から散っていく。
僕もその一人だったが、心の中では依然「イモータン・ジョー! イモータン・ジョー! V8! V8! V8!……」と繰り返し唱えていた。
さっきからナニ言ってんだかさっぱりわからんという人は、ネトフリやアマプラで『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015年 豪・米合作)を観てください。最高の映画なので。
ちなみに、今年(2024年)公開された同作の前日譚『マッドマックス:フュリオサ』(2024年 豪・米合作)を僕はまだ観ていないが、こっちもすごい映画であることは間違いない。
えっと、なんの話だったっけ?
宮ヶ瀬ダムの周辺に広がるダイナミックな景色
神奈川県北西部、愛甲郡愛川町半原、相模原市緑区青山、愛甲郡清川村宮ヶ瀬という3市町村にまたがる地域に位置する宮ヶ瀬ダムは、首都圏の水を支える重要なインフラだ。緑豊かな山間に、高さ156メートル・長さ約375メートルの巨大なコンクリートの壁がどーんとそびえ立ち、訪れた誰もが驚く圧倒的存在感を示す。
洪水調整や水道用水の確保だけでなく、発電も行う“多目的ダム”として1984年に着工、2001年に完成した、比較的新しいダムである。
ダムの周辺には、「宮ヶ瀬ダム水とエネルギー館」という体験型施設や、歩きやすい散策路などが整備され、ロードトレイン「愛ちゃん号」が、隣接する県立あいかわ公園とダムを結ぶなど、全体的に観光を重視したつくりとなっている。
そして宮ヶ瀬ダム観光の最大の目玉が、その放流シーンなのである。
定期的に行われる観光放流では、ダムから大量の水が豪快に流れ落ち、観光客はその迫力の光景を、水しぶきを浴びながら間近で見ることができる。
山に囲まれたダム湖である宮ヶ瀬湖では、遊覧船が運行されている。僕が行った9月上旬はまだ緑濃い時期だったが、紅葉シーズンにはきっと、湖から見事な景色が見られるのだろう。
家族連れやアウトドア好きにはぴったりの場所で、四季折々の変化に触れるため、何度も訪れたいと思うような場所だった。
僕は観光放流を見学した4日前にも宮ヶ瀬ダムを訪れていた。いくらなんでも週に2回来るのはやりすぎだと思われるかもしれないが、これにはちょっとした事情がある。
観光放流を見ようと最初に訪ねたのは、9月頭の水曜日。平日だから観光客も少なく、見学しやすいだろうと狙っていたのだが、その日はなんと、台風10号の影響により観光放流は中止だったのだ。
宮ヶ瀬ダムを管理する事務所のホームページには、前日から中止を知らせる告知が出ていたので、確認もせずにいきなり訪ねた僕のミスではあるのだが、非常に残念!
でもその日はその日で、台風によって著しく増水したダム周辺の特殊な光景を見ることができたので、まあ怪我の功名でもあった。
台風の影響で観光放流が中止になった日に見られたレアな光景
観光放流が中止になったその日、僕はそれでもダム周辺を見ておこうと思い、堤体の上から下流方向を見渡してみた。156メートルの高みから見下ろす景色は、目がくらみ、足がすくむほどの迫力だった。
しかし、それ以上に驚かされたのは、ダムの下を流れる川の様子だった。
水位は、両岸の木の葉が浸かるほどまで上昇していた。さらに特異に感じたのは、その水の色だ。
黄土色でもなく、ベージュでもなく、クリーム色でもない。うっすらと緑がかかったような、どこか曖昧で独特な色合いで、日本の川ではあまり見かけないものだった。
なぜ増水した川がこのような色になるのか、僕には推測できなかったが、その異様な色の蛇行する川は、まるでアマゾンの奥地を流れるそれのようで、非常に不思議な光景だった。
その川の先には、石小屋ダムという小規模なダムがある。
正式名称は「宮ヶ瀬副ダム」で、名の通り宮ヶ瀬ダムに付随し、放流水を調整して下流の急激な水位上昇を抑える役割を担っている。
「宮ヶ瀬ダム水とエネルギー館」のスタッフによれば、この石小屋ダムでは今日、非常に珍しい光景が見られるとのことだった。
通常、石小屋ダムは川の水を堰(せ)き止めて流量を調整しているが、現在は川が異常に増水しているため、ダムの堤を超えて水が常に流れ落ちる「越流」という状態になっているという。
宮ヶ瀬ダムの上からエレベーターでダム下まで降り、そこから歩いて10分ほどで到着した石小屋ダムでは、確かに水が勢いよく流れ落ちていた。
なかなかの迫力だ。
ただ、僕にとっては初めての訪問だったため比較のしようがなく、これがどれほどレアな光景なのかはわからなかった。
だが4日後に宮ヶ瀬ダム放流見学リベンジのため再訪した際には、石小屋ダムの水は流れていなかったので、やはり貴重な瞬間を目にすることができたのだと思う。
4日後、日曜日のダム周辺は、川の水もかなり引き、落ち着きを取り戻しつつあった。
しかし、川の色だけは、まだ元に戻っていない。時間がたてばすべて元通りに戻るのだろうが、限られたときにしか見られない自然とインフラの織りなす光景が、僕の頭に強く刻まれた。
さまざまな楽しみ方ができる宮ヶ瀬ダム。
ぜひ一度は訪れてみることを、強くおすすめする。