先月末、米国の経済学者、ダニエル・カーネマンが90歳で亡くなったという報道があった。経済学というと複雑な数式やグラフが頭に思い浮かぶが、2002年にバーノン・スミスとともにノーベル経済学賞を受賞したこの経済学者は、経済学に心理学の知見を持ち込んだ「行動経済学」を提唱し、経済の様々な課題について多くの研究成果を残した。

人間であれば誰しも大いに気になる経済現象については、歴史的に非常に多くの経済学者により膨大な研究がなされ、いろいろな角度から導き出された理論が展開されてきた。しかし、そのメカニズムについてはまだ解明されていない部分が多い。その中で、活動の主体となる人間の行動パターンに焦点を当て、心理学の知見を用いながら経済現象を解明しようとする学問がカーネマンらが提唱した「行動経済学」である。最初のころは学界からは異端扱いされたが、現在では大学の授業などでも取り上げられるようになり、まだ進化を続けている。

「人間は合理的で理にかなった判断をする」という前提の誤り

多くの人々は「よく考えて行動すれば、それほど愚かな行動はとらない」と考えているものだ。しかし、近年、その手口が非常に巧妙になって大きな社会問題となっている俗にいう「オレオレ詐欺」を代表とする卑劣な特殊詐欺の実態を知るにつけ、人間の経済行動には多分に心理的側面が大きいのではないかと考えてしまう。

いきなりの電話で相手を非日常の状態に追い込んで「感情喚起」を起こし、その後に畳みかけるように偽の警察、弁護士、銀行員などが劇場型に登場して、説得的話法を使いながら高齢者から大金を巻き上げるような手口は、日々進化していてその被害額は年々増加している。私の住む地区にも警察のパトロールカーが巡回して「現在この地区に特殊詐欺の電話が集中してかかってきています。気を付けてください」などのアナウンスをふれ回っている。

被害者は高齢者だけではない、ほんの最近、著名人を騙ったSNS上の投資詐欺広告に業を煮やした著名人本人達が、警察に対応要請をするというニュースがあった。これらのケースは利用された著名人のイメージなどとともに発せられるメッセージの「発信源効果」を巧妙に利用した手口である。私自身もこのような広告を目にすることも非常に多いので、ニュースを見た時にはその拡大範囲が広いことに驚いた。

こうした詐欺ケースでは「あなただけに」とか、「あと残り何口」などの希少性を強調することで、切迫感を増長させながら素早く行動喚起を起こさせる「メッセージ効果」が巧みに織り込まれている。こういった消費者詐欺のテクニックには「行動経済学」で理論的に明らかになった人間の経済行動と心理要因の関係性が多く使われている。人間による経済活動の原理を解き明かそうと研究したカーネマン達の努力がこうした卑劣な手口に利用されていることは大変に残念なことであるが、「人間は合理的で理にかなった判断をする」という古典的経済学の前提では説明できない人間の経済行動はいくらでもある。

半導体の価格交渉はまさに心理戦

こうしたことを考えると、私が関わった半導体ビジネスでの顧客との毎期の価格交渉はまさに心理戦そのものだったような気がする。半導体の価格を決定づける要因は、生産プロセスの熟度につれて歩留まりが向上し低価格化を可能とする「習熟曲線」や、需給バランス、競合製品とのベンチマークにより決定されるコスト/パフォーマンス、などの客観的なデータによる固定要因の部分が大きいのは確かだが、最終的に顧客から注文書を獲得するまでには、大きなストレスを要求される心理戦の部分が多くあるのも確かである。

工場のキャパシティーをきっちり埋めることが半導体ビジネスでの最重要課題であるが、最終的にそのキャパシティーに売り手と買い手が契約でコミットする「注文書」に至るまでには、お互いの事情を探り合う心理戦の繰り返しとなる。

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    半導体ビジネスは工場のキャパシティーを埋め、いかに高い歩留まりでデバイスを製造するかが重要になってくる。写真は筆者所有のAMDのAm486チップのウェハ

「四半期前半に獲得する1万個の注文書と四半期最終週に獲得する2万個の注文書」という選択があった場合、半導体の営業員は躊躇なく前者を選ぶ。これには経済効果の相対的判断において、その効果の大きさを近くにあるほど大きく感じ、遠いほど小さく感じる「時間的選好」が働き、近くの効果を過大評価する「現在バイアス」の状態にある、というのが行動経済的な説明となるが、半導体の営業の世界ではもっと厳しい現実が待ち構えている。期末が迫って、売り上げが不足してくると「前回の10%割引であと1万個売ってこい!」といったような指令が飛んでくるのが常である。逆の場合もある。百戦錬磨の半導体営業部員は、本来単価100ドルで1万個売れる案件がある場合、購買部相手には期末まで意図的に110ドルで見積もりする。しかし購買部側は100ドルで買うという姿勢を崩さない、そこで営業部は期末の最終週になって「購買さんには負けました、10ドル割り引いて100ドルにいたしましょう。ただし1万5000個買ってください」という具合に話を持っていくと丸く収まる。これには最終的な意思決定の場で相手の背中をそれとなく押すという効果を持つ「ナッジ」という行動経済学での考えが当てはまる。

もっとも、こうした議論は現在のNVIDIAの状態のように供給が圧倒的にタイトで、交渉するごとに値段が上がっていくような特殊な状態では当てはまらないが、そういう状態は非常にまれなケースだ。

行動経済学的生活スタイル

カーネマンらが提唱した行動経済学の歴史はほんの50年くらいであるが、現在では多分にマーケティングの手法に取り入れられているという印象がある。しかし、自身の日々での活動について行動経済学的に考える行為は、結局は自身の行動を客観的に分析することができ、無駄遣いを減らすとか、納得の買い物にはより満足が得られるといったプラスの面が多くあるのは確かだ。カーネマンらの研究結果は経済学やマーケティングへの応用だけにはとどまらない。我々はこの3-4年、コロナ禍という大変にストレスの大きい時代を過ごすことになったが、人と人の間隔を充分に取るという必要性から考えられた、スーパーなどでレジの前に引いてある導線はカーネマンらが考えた「ナッジ」の行政での応用であるというのはよく知られた話である。

  • ナッジ理論

    コロナ禍において登場したソーシャルディスタンスを誘導するための足跡マークもナッジ理論によるもの