さよならなんて云えないよ
嫁へ行くつもりじゃなかった、結婚したいと思っていたわけじゃなかった、とはいえ結婚しないと決めていたわけでもなかった、我ながら結婚について書く資格はない、けれど悪妻と罵られる謂れもない、……「結婚」について書くとき考えるとき、「ナイ、ナイ、ナイ」と否定を積み重ねてしまうのは何故だろう。
私が文章に否定形を多用するのは今に始まった話ではナイのだが、テーマが「結婚」だったせいか、ことさら読み手にネガティブな印象を与えてしまっていたようだ。パンドラの函と同じで、数々の否定が飛散していったあと、最後に残るのはたった一つの肯定、だと思っているのだけれど、そうは受け止めてもらえなかったりもする。
突然だが、私は自称アーティストでも何でもなく通りすがりの一般人で、「無の状態でいるところに或る日突然インスピレーションが降ってきて、そこから新しいアイディアが自然に湧いてくる」といった制作過程、旧時代の芸術家たちがインタビューに答えてリップサーヴィスする例のアレについては、つねに懐疑的である。代わりに、天才ではない自分自身の想像が及ぶ範囲内で、「あれでもナイ、これでもナイ」「今までにナイ」ものをと考える、他者に対する強烈な意識があってこそ、「まったく新しい」ものが生まれ得るのではないか、とだけ思っている。
パクリ元があるのに知らないフリをして、大衆には気づかれるはずもないとタカをくくって、さも自分でゼロから考えたかのようにしれっと世に出す輩ほど恥ずかしいものはない。だから、何かを見て「新しい」と感じたとき、いつも「かつて別の誰かが作った、すでにアルものではないか?」と気にかかる。気にかけてからでなければ、その「新しさ」を安心して鑑賞できない。
芸術作品の新規性や、学術分野における先行研究調査についての話ばかりでも、ない。たとえば「結婚」について。パッと見たとき第一印象が斬新で強烈で、「まったく新しい」結婚だと思われる事例は、世の中にたくさんある。でも、本当にそうだろうか? たしかに、あれでもナイし、これでもナイけど、それとは別に、すでにアルものだったのではないだろうか? 結婚の在りよう、その多様性について考えながら書きながら、ずっとそんな思いが念頭にあった。
新しい当たり前
「あなたの結婚はとてもユニークだから、日常生活を綴れば、そのまま記事になりますよ」と言ってくれる心優しい人たちがいた。私にはそれがまったく信じられなかった。この広い世界中で本当に私だけが、結婚をこんなふうに捉えているのだろうか? それを受け止めてくれる配偶者は地球上にたった一人しかいなかったのだろうか? その巡り会いの奇蹟を、ただ言祝いでさえいればよいのだろうか。「本当に?」というフレーズを何度も繰り返した。「そんなはずはナイ!」と言いたいばかりに。
きっと私の他にも、同じ思いの人がたくさんいるはずなのだ。自分だけが特異点であるはずがない。たしかに世間一般から見たら少数派かもしれない。けれど、あの「絵に描いた餅のような結婚」……結婚情報誌やミセス向け女性誌に描かれる「唯一絶対の幸福」をなぞるようなアレを実際に実践している人数よりは、ずっと多いんじゃないだろうか? そう思っていた。
だから私は、この連載を「まったく新しい結婚の在りようを提示する」ものだとは思わない。独身だった時分からあちこちで見聞きした事例を集めても、これだけ多種多様なのだ。私がゼロから何かを発案したわけではない。そうだ、やっぱり、あれもこれもすでにアルものだった、見つけづらくて埋もれているけど、たしかにしたたかに存在していた、よかった、よかった、いや、よくないほうの事例だって多種多様にアルんだけどな、と考えながら書いてきた。
「結婚」というシステムが発明されたその時点から、人々はどうにかこうにか苦心して、この融通の利かない制度と折り合いをつけてきたのだ。こんなに不条理なシステムが人々の「幸福」の定義を大きく縛っている状況下で、みずから進んで縛られに行き、何の疑問も持たずにいるほうがおかしい……とまで言う気はないけれど(ここも誤解されやすい。緊縛プレイにだって快感は宿る)、「すんなりいかなかった」人々の創意工夫にこそ、私自身、励まされることが多かった。
そして読者からの感想で、「何が面白いの、ここに書いてあること、どれも当たり前でしょ!」という反応が、じつは一番、嬉しかった。もちろん当人は私の文章を批判しているつもりだろうが、書いた私は、同志を見つけたような思いでコメントを眺めていた。そう、どれも当たり前のはずなのに、どうしてこんなに思い悩むのだろう。もしかすると、私だけが、考えすぎ?(そんなはずはナイ!)
青また青また青
「交際期間0日で結婚した夫婦」や「一度も同居したことがない夫婦」、「外食しても割り勘する夫婦」の生活なんて、独身時代には想像もつかなかった。もっと詳しく聞きたいのに、当人たちは多くを語らない。どうして教えてくれないんだろう? と思っていた。自転車に乗る方法はたった一つで、それが習得できない私は、一生自転車に乗れないんだと惨めな気持ちになっていた。乗りたくて乗りたくて乗れなくて、ひとり転んで傷だらけで泣いていたときに、誰かにまったく別な乗り方のコツを教えてもらえればよかったのに。喩えるなら、そんな感じだ。
ところが、この一年余を既婚者として過ごし、その理由が少しずつわかってきた。自転車の乗り方って、乗れた途端に、どうでもよくなる。最初こそ「こんな私でも乗れた!」と自慢げに見せびらかして走り回るものの、それが毎日の通勤の足ともなれば「乗れたからって、何なんだ……?」と気持ちが変わる。「ピストとかノーヘルとか無灯火とか、本当にやめてほしいわー、乗るからにはルール守れよ! 燃すぞ?」と別の方角へ口出しするのも忙しく、「私ならではの乗り方」なんてわざわざ披露する機会もなくなっていく。
彼らだって別に、秘密にしていたわけじゃないんだ。いつまでも補助輪が外せない人、死亡事故件数を見て怯えている人、汗をかくのも日灼けもイヤだという人、車やバイクのほうが速くてイイじゃんと言い返す人……それぞれに主張のある「乗っていない」人々に対しては、「ま、乗ってみないとわからないよね!」としか言いようがない。最後には肯定が残るんだけれど、途中の文章は「ナイ、ナイ、ナイ」だから、一度も乗ったことのない人には、きっときちんと伝わらナイ。
他者に対する強烈な意識は、隣の芝生をただただ青く見せる。しかし、いざ自分で土いじりを始めてみると、芝生の青にもいろいろあるとわかってくる。ちょっと変わった色で伸びてきた同じ芝生の上を、二台の一人乗り自転車が、それぞれ好き勝手に走っている。茨の道かと思いきや、案外ふっかふかなので、転んでもさほど痛くない。というか、転ぶことが乗ることの一部であると言えるほど、二台ともしょっちゅうコケる。「あの頃アスファルトの上で格闘していた猛練習なんて、痛いだけで何の意味もなかったな」と思うんだけれど、今それを頑張る人たちの痛みを否定する気もない。私の「結婚観」は、たとえばそんなイメージだ。「新しい」と思う人もいるかもしれないし、「なぁんだ、うちと同じか」と思う人もいるかもしれない。
萌ゆる新芽に誘われるまま、庭から先へどんどん走っていくと、いつか地平線のあたりで、いろんな青が一つの青になって見えるのだろう。隣をゆくいろんな自転車の乗り手たちと、語らいながら、どこまでも走ってゆきたい。景色はびゅんびゅん過ぎていくから、混じり合ったどの芝生も、とてもきれいに見える。後続車に向かって「ナイ」を使わずに表現するなら、たった今は、そんな心境である。
ご愛読ありがとうございました。単行本『嫁へ行くつもりじゃなかった』は今秋刊行予定です。
<著者プロフィール>
岡田育
1980年東京生まれ。編集者、文筆家。主な生息地はTwitter。2012年まで老舗出版社に勤務、婦人雑誌や文芸書の編集に携わる。同人サークル「久谷女子」メンバーでもあり、紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。「cakes」にて『ハジの多い人生』連載中。CX系『とくダネ!』コメンテーターとして出演中。2013年春に結婚。
イラスト: 安海