可南子は傘をなくしたことがなかった。どこかに忘れてきたり、どこに置いてきたのかわからなくなったりしたことはなかった。どこにいても傘の存在を忘れたことはなかったし、出かけた先で雨がやんでも、うっかり傘を置いてくるなんてことはなかった。

可南子の傘は、金色の細い取手がついていて、表面は光沢のある水色だった。開くと内側に、色とりどりのチューリップの花が描かれていた。普段、飾り気のない服装をしている自分にはちょっと似合わないかも、と思うくらい女っぽい傘だ。自分で選ぶなら買わなかっただろう。実家に帰省したときに、母が「もらいもので、デザインが若すぎて使えないんだけど、いる?」と訊いてきて、その傘を見たとき「欲しい」と思った。自分には似合わないかもしれないけど、素敵な傘だと思った。「似合わないかもしれないけど」の部分を、「もらいものだから」「もったいないから」という気持ちで打ち消して、可南子はその傘を手に入れた。そして、ずっと使っていた。

その傘を手に入れてから一年後、可南子はつきあっていた男と暮らし始めた。自分のアパートを引き払い、ふたりとも住んだことのない駅の近くに引っ越した。そんなことをするのはお互いに初めてで、家に男の人がいるというのは、いいものだな、と思ったりもした。安心して、日々を共有して、そういうことを初めてした。楽しかった、はずだった。

「このまま、この人と、ずっと一緒にいるのだろうか?」

ただ、なぜかそう思うと、心にさっと灰色の雲がかかり、あたりが薄暗くなるような、そういう気分になった。 そういう気持ちでいることは、毎日顔を合わせている相手には、ごまかせないものだ、ということも初めて知った。

先に引っ越すことが決まったのは、可南子のほうだった。二人で暮らした部屋で、相手の目の前で自分の荷物だけを段ボールに詰める作業をするのは、ひどく残酷な気がした。「テレビはどうする?」「使うでしょ? 私あんまり観ないから」「炊飯器は?」「もう古いし、使うならあげる」。そういう会話を普通にしていることも奇妙な感じがした。お互いにいつもと変わらないように話した。でも、いつも何でも手伝い助けてくれた彼が、荷作りだけは手伝ってくれなかった。

引っ越しの日は雨が降っていた。ひとりで荷物を詰め終わり、それを引っ越し屋さんがトラックに乗せ、可南子は電車で引っ越し先に向かうことになった。

玄関を出るとき、彼が見送りに来た。

「どうしても、出ていかなきゃいけないの?」

もう荷物をトラックに積んでいるのに、もう引っ越し先の契約をしているのに、ここを引き払う手続きも済んでいるのに、相手の心のことは、いままで何も手をつけずほったらかしにしておいたのだと、そのとき初めてわかった。

でも、どうしても出ていかなくてはならなかったのだ。心がここに、ないのだから。ごまかして、ごまかして、先延ばしにしても、必ずいつかは訪れるときなのだから。いま「行かない」と言って喜ばせておいて、またいつか出ていくような、二度も同じことで傷つけるようなことをするよりは、いま、出て行ったほうがいい、と可南子は思った。

引っ越しの作業をしていた、汚いジーンズにTシャツの格好で、可南子は傘をさして駅に向かった。荷作りのときに詰めてしまったので、化粧もしていない。

電車から地下鉄に乗り換え、引っ越し先の家へ向かった。トラックはもう着いていて、可南子は慌てて鍵を開け、荷物を入れてもらった。

傘を地下鉄に忘れてきてしまったことに気がついたのは、その夜、眠りにつく前だった。

地下鉄の端っこの座席に座って、銀色のポールに傘をひっかけたことははっきり覚えている。絶対あそこに置いてきてしまったのだとわかっていたけれど、傘を取りには行かなかった。

「もしも、私が傘をうっかりどこかに忘れてくるような人間だったら、いまごろ、もっと違うふうにできていたのではないか。この人と一生ずっと一緒に生きていけるのか、なんてことを毎日、突き詰めて考えたりせずに、ぼんやり、なんとなく楽しいまま一緒にいられたのではないか」。

そう思うと、傘をなくさないような女であったことが、すべての間違いの始まりだったような気がしてくるのだった。

そもそも、あんな女っぽい傘は、私には似合わなかったんだ、と可南子はその傘のことを諦めようとした。

再び一人暮らしを始めて、四年が経った。その間、可南子は通り雨に遭ったときに駅でビニール傘を買い、傘立てに立てておいて誰かに盗まれたり、また買い直したりした。ごく平凡な、何の目印もないビニール傘しか買わなかった。

仕事の打ち合わせで、普段あまり使わない駅で降りた。終わったあと、自分の家の路線の駅がそれほど遠くない場所にあるようだったので、そこまで歩いてみることにした。

角を曲がったとき、真っ赤なものが目に飛び込んできた。小さな店のショーウインドウに、赤い傘が飾られていた。その傘は畳んだ状態できっちり巻かれていて、どういう仕組みなのか、巻かれた先が花束のようになっているのだった。

「その傘は、へりのところにフリルがついているんですよ」

傘をじっと見つめている可南子に目を留めて、店から小柄な女性が出てきた。梅雨時の暑苦しい時期に、上等の麻の白いシャツを着て、黒いパンツを履き、使い込んだ茶色の革のベルトを締めている。四十代後半ぐらいだろうか、と可南子は思った。ボタンをいくつかあけたシャツの胸元に、大きな琥珀を使ったネックレスを着けていて、それが何の違和感もなくよく似合っていた。唇は、リップペンシルを使って描いたのだろう。少しダークな赤い色だった。何もかもがきちんとしていて、それでいて大胆だった。

その傘は、イギリスのものなのだそうだ。そっと値札を見たら、3万円以上もした。とてもこんな傘は買えない、と思った。まず派手すぎるし、そもそも傘なんて、すぐなくしてしまうものだし、どこかに忘れてきたりするものだし。

そう思ってから、可南子ははっとした。そうだ、私は、傘をなくさない女だったのだ、と、思い出したのだった。

可南子はその傘を買った。会社の人に「すごい傘ですね」と笑いながら言われても、「素敵な傘ですね」とうっとり褒められても、ただ「うん」と言った。そして、雨の日は、その派手な傘をほこらしく天に掲げ持った。もちろん、どこかに忘れてきたりはしなかった。

「傘をなくさない女だから、私はこんな傘を買えるのだ」と可南子は思った。昔、自分から自信を奪っていったそのことが、いまは小さな自信になっていた。

<著者プロフィール>
雨宮まみ
ライター。いわゆる男性向けエロ本の編集を経て、フリーのライターに。著書に「ちょっと普通じゃない曲がりくねった女道」を書いた自伝エッセイ『女子をこじらせて』、対談集『だって、女子だもん!!』(ともにポット出版)がある。恋愛や女であることと素直に向き合えない「女子の自意識」をテーマに『音楽と人』『SPRiNG』『宝島』などで連載中。マイナビニュースでの連載を書籍化した『ずっと独身でいるつもり?』(KKベストセラーズ)を昨年上梓。最新刊は『女の子よ銃を取れ』(平凡社)。

イラスト: 安福望