「雷さんロボット ミスター・スパーク」誕生のひみつ

誕生日を迎えた当日の主役「ミスター・スパーク」については、まず芳賀氏から「そもそもどういう目的で作られたのか?」という質問が。

秋本氏いわく「最初は歩かせるのが目的でしたから、本命は無線操縦で歩くロボットたち。その後から兄弟として、いろんなバリエーションも作っていきました」とのこと。

1959年に誕生した最初の大型ロボット、長男「一郎」から数えると、ミスター・スパークは6番目の兄弟。その前に「三郎」「富士男」「五郎」と歩行ロボット三人衆が揃っていたので毛色を変え、立ったり座ったりするロボットとして企画されたのだろう。

「ミスター・スパーク」は立ったり座ったりが可能。往時はテープ音源でしゃべり、良い子悪い子を当てる手相占いをしてみせたとか

秋本氏が保管していた、1982年夏、日本橋髙島屋での「未来の仲間 大ロボット博」ポスター。ミスター・スパークの姿も。右上は同イベント台湾巡回版パンフ

また、「"雷さんロボット" というイメージはどこから? 相澤先生のインスピレーションですか?」という質問に対しては、「う~ん、どうなんですかね。先生の機嫌が悪かったんですかね? (笑)」というお答え。

大型ロボット兄弟の開発において、次郎氏からはアイディアやコンセプトのみが与えられ、それを実現するための具体的な機構については5~7人ほどいた職人たちが一から工夫して作り上げていったと言う。

その職人チームをまとめていたのが、次郎氏のご子息で研究所の "番頭" を自称した相澤研一専務。デザイン、イメージスケッチや図面の類は研一氏が一手に担っていた。美しく仕上げられたロボットのボディも大元は鉄板。三面図や展開図を元に切り抜き、折り曲げ、溶接して箱状に組み上げられていった。

内部機構を説明した製作図に触れる秋本氏。図面は相澤研一専務が担当していた

大型ロボットの優れたデザインは研一氏のセンスに依るところが大きい

「やっぱり我々としても初めての作業ですからね。寸法取りから、板の厚み、そういうものまで計算して、溶接して形にして。塗装まで私たちがやったんですよ」と、全てをこなす必要があった当時の苦労を語る秋本氏。しかし一方で「それが楽しみだったんです」とも。困難な課題を与えられるほど、どうやってそれを実現してやろうかと職人チーム一同が技術屋魂を燃え上がらせていたのだろう。

相澤ロボットの半分は秋葉原生まれ!?

部品調達については、「秋葉原にはしょっちゅう行ってました。まず無線関係は全部、あそこでないと調達できませんので」と秋本氏。相澤ロボットの半分は秋葉原製、と言っても過言ではなさそうだ。

実際、遺された相澤ロボットの内部には、トランス、真空管、ニキシー管など、最近ではなかなか目にしないような電気部品が多数使われている。

これまで修復作業にあたった神奈川工科大の学生たちも、説明しないとそれぞれが何の部品か解らなかったそうで、兵頭教授は「そういう意味では、相澤ロボットの修復は大学生の勉強にもすごく役に立ちます」と、修復プロジェクトの教育的な意義に触れた。

「相澤ロボットの修復作業は現在の学生たちにも非常に有意義」と語る兵頭教授

三郎の背面ハッチ内部。胴体には往時の部品がそのまま残っている

ミスター・スパークの頭部(電子頭脳風?)に使われている電球は、クリスマスのデコレーション用のものだとか

一方、バッテリやモーター、ロボットの外装デザインには自動車部品も流用された。

「当時はスクラップ屋がいっぱいあったのでそういう所に行ったり、メーカーに直接行って部品として譲ってもらったり」

たとえば、三郎の耳はトヨペットのバンパーに付いていた部品を流用。胸の左右のデコレーションは車幅灯が流用されている。秋本氏ら職人たちは、車が走っているのを見ても常に「あの部品はあそこに使えそうだな」という目で眺めていたそうだ。