アラフィフ世代の電王戦

――当時47歳の森下九段が、第3回将棋電王戦に出場されたのはびっくりしました。かなり勇気のいる決断だったのでは?

森下 卓九段

「立候補したとき、島朗理事にはかなり驚かれましたが随分、応援していただきました。勝敗を度外視と言うと語弊がありますけど、とにかく強いソフトとやって自分を鍛え直したいというのが大きな動機でした。それに私も久しく解説する側ばっかりだったので、たまにはされる側に立って注目されたいなあと。そういった意味では過ぎたる効果がありました」

――対戦ソフト(ツツカナ)の開発者の一丸貴則さんに「自分を七冠にするソフトを作ってほしい」と頼んだそうですね。

「そうなんですよ(笑)。『一丸さん、コンピュータを強くすることもいいけど、なんとか私をもっと強くするソフトを作ってください』って言いましたら、『考えておきます』と(笑)。それはその通りだと思いますよ。終盤力では明らかにソフトのほうが上で、現行の対局ルールでは人間に分が悪いですから。ただ、コンピュータは序盤がちょっと甘いので、そこをとがめてプロ側がリードしてそれで逃げ切れるかというところが、いま勝負だと思うんです」

――条件次第では、まだ人間側に分があると?

「今回の電王戦で、序盤で少しくらい形勢がよくなっても、そこから勝つのがいかに大変かということが骨身に沁みました。将棋って、頑張ってこられるとなかなか勝てないゲームなんです。人間は相手が強いと、気持ちが萎えて転んでしまうということがありますから。でもコンピュータは感情がないので絶対に転びません。悪い局面でもずーっとひたひたついてくるんです。それでも逃げ切れれば勝てるのですが、やっぱりどこかで人間ってミスをするので、そこをスッとやられてしまいます」

――ヒューマンエラーをなくすための森下九段のアイデアについてはのちほど詳しくお聞きします。電王戦に向けて練習用のパソコンとして電王戦公式統一採用パソコン『GALLERIA電王戦』(以下ガレリア電王戦)が届き、将棋ソフトと指してみてどんな印象でしたか。

「自分の対戦相手のツツカナを相手に練習をしました。年々、勝負に対するこだわりが薄くなって闘志を保つのが難しくなってきていたのですが、日が近づくにしたがって、やっぱりなんとしても勝たなきゃいけないという気持ちになりました。しかし、やればやるほどいかに大変なのかが分かってきて……。といって序盤でハメる作戦も浮かばず、なんとか逆転負けをしなければいいがと思いました。まず序盤でリードを取ることと、そのあと逆転を許さないためにはどうすればいいかということを、とことん考えました」

――戦い方の方針は、どうお立てになったのですか。

「練習期間中、出場棋士が集まってコンピュータ将棋の専門家を講師に呼んでのセミナーがありました。講師の先生は、コンピュータのアラを突いてうまくいくようなハメ手が見つかるかもとおっしゃっていたのですが、自分がやってみてそういう感じが全くしませんでした。変なことをやると逆に自分のほうがヘマをしそうなので、結論としては普通に戦うのがいちばんだろうと思いました」

――戦型の目星はどうやってつけたのですか。

「ツツカナは7~8割くらい矢倉でくるので、矢倉に絞って練習しました。序盤はやっぱり私が作戦勝ちするのですが、そこから具体的に勝ちに向かうということが非常に困難で、本番が近づくにつれて、ますます気が重くなりました(笑)」

――森下先生というと森下システムを創案された第一人者ですけど、やはり矢倉になれば自分の持ち味は出せるという感じは持っていたのですか。

「まず序盤で作戦勝ちしないと厳しすぎると思っていました。五分の戦いで中盤を迎えたら、これはもう勝ち味がゼロに近いだろうと。本番でもそうでしたが、コンピュータは序盤でおかしなことをしてくるんですよ。致命的なミスでは決してないのですが、その分だけ私のほうがリードできる展開になるとは思いました」

森下新ルールの提唱

――本番の対局は、小田原城で行われました。どんな気持ちで臨みましたか。

「コンピュータより時間を使うようでは話にならないと思いましたので、とにかく決まった手は1秒で指すようにしました。チェスクロック方式だったので、1秒使っただけでも加算されてしまいますので」

――ツツカナとの勝負を振り返っていかがですか?

「中盤で私が△8五桂と銀取りに跳んだのがちょっとミスで、ツツカナの▲8六銀をうっかりしました。この銀はその前に8六から▲7七銀と引いたものなので、今度は▲8八銀と引くと思ったものですから。思考の流れでしょうがなかったんですけど」

――このミスは大きな敗因になりましたが、これもやはりヒューマンエラーといえるのでしょうか。

「そうですねえ、私の弱さかもしれませんが」

――対局後の記者会見で、森下九段はユニークな新しい対局ルールを提案されていましたね。①人間側の盤側に検討用の将棋盤を置き、変化を並べながら指し手を考える。また、②持ち時間が切れたら1手15分。「森下ルール」と呼ばれていますが。

「なぜ私がああいう提案をしたかといいますと、人間的な疲れたりプレッシャーを感じたり、雑念が入ったり、あるいは読みが混乱したりといったヒューマンエラーの要素をなくして戦えば、技術対技術ではまだ人間のほうが上なんじゃないかと思うからです。これはずっと以前から考えていたことで、人間が確実に勝つためには私の提唱したルール以外にないと思います。ただ、これはあくまで現況の差を埋めるためのルールで、将来コンピュータの序盤がいまのプロ並みに追いついたとしたら、もはや勝てなくなるでしょう」

――コンピュータの序盤が人間並みになるには何が必要なのでしょうか。

「コンピュータが、現状のように形勢判断を評価関数という形で出しているレベルでは、プロが間違えないというルールならソフトが勝つことは困難でしょう。コンピュータが定跡を解明できるレベルまで至らない限り、人間は負けないと思いますね。ヒューマンエラーで間違えて抜かれてしまうという現実があるわけですが、逆に言うと間違えさえしなければ、抜かれません。実際にやってみないと分かりませんが、プロがまわしを取ったらもうコンピュータは勝てないだろうと思うんです。

人間が間違えないルールで戦って、それでも勝てないのだったら、誰が何をやっても勝てません。そうなると、我々が作戦勝ちだと思っている局面が、果たして本当にそうなのかというところまでいきます。プロ棋士の判断自体が間違っているということになるかもしれません」