「救いの手」は救済であると同時に、確実に人間を深く傷つける
「常識」とはいったい何でしょう。例えば、電車やバスのなかで、お年寄りや体の不自由な人に席を譲るべきだと誰もが知っています。私たちは困った時はお互い様だと教わってきました。
でも、私たちが作り出したのは、弱者に冷淡で、分断された社会でした。
そもそも弱者を救済することは100%正しいのでしょうか。20代、30代の生活保護受給者の自殺率は非受給者の5倍以上高くなっています。あるいは生活保護の受給には「恥ずべき暴露」ともいうべき「貧しさの告白」を必要とします。「救いの手」は救済であると同時に確実に人間を深く傷つけます。このことを自覚しない限り、救済と自己満足は紙一重になってしまいます。
人間を信じられず、成長も鈍い社会を望みますか?
社会的弱者をめぐる常識と現実の間にはとてつもない距離があるのです。ですが、弱者を無視するのは、得策ではありません。格差を放置すれば巡り巡って自分自身の不幸となって跳ね返ってくるからです。
OECDはこう警告します。貧しい人の教育水準を高めれば、経済の成長率が上昇する、だが、貧しい人を放置する社会は、他者を信頼しない社会を生む、と。みなさんは人間を信じられず、成長も鈍い社会を望みますか? そのような社会を次の世代に残していきたいと思いますか? 僕はそうは思いません。
常識が必ずしも正しいとは限らない----歴史の変わり目に立つとき、この視点はとても大事です。なぜなら社会に変化が求められるときは、常識が通用しなくなるときに他ならないからです。
発想を転換、思い切って中高所得層も受益者にする「必要主義」
ひとつ質問です。みなさんは「格差是正」と「弱者救済」を同じだと考えていませんか? もしそうならそれは間違っています。「再分配の罠」「自己負担の罠」「必要不一致の罠」という三つの罠に陥った分断社会では、低所得層や高齢者、非正規雇用者といった弱者に配慮すればするほど、中高所得層の格差是正への反発が強まります。弱者の救済は、彼らを受益者とする一方、中間層や富裕層を明確な負担者としてしまうからです。
ここで発想を変えてみましょう。思い切って中高所得層も受益者としてしまうのです。弱者を労わる人たちには不愉快な決断かもしれません。でも、中高所得層が社会的弱者を批判する理由はなくなります。人の粗探しをするよりも、社会全体にとって何が必要で、何が大切かを考えることが意味を持つようになります。弱者と連帯し、彼らの困難に気を遣うほど、自分の利益が大きくなる、そういう社会になります。
全員にサービスをあげると格差は広がるのではないか、そんな心配の声も聞こえてきそうです。でも反対です。下の図をみてください。格差是正は中高所得層を豊かにすることでも実現できます。教育や福祉、医療、育児・保育といった人間の必要を中間層も含めたあらゆる人びとに等しく提供しても格差は縮まります。たとえ低所得層に負担を求めたとしても、です。
私はこの考えを「必要主義」と呼んでいます。主流の経済学者は、経済的な利益を最大にする存在として人間を見ます。私はこの考え方に反対です。人間とは総合的な生き物であり、利害得失を超えて行動することも多いからです。でも偏った経済学の前提でもなお、必要主義のもとでは、人間は協力しあって生きていくでしょう。
あくまでも人間の必要を満たした「結果」として、格差が縮小する
「必要の社会」では地方自治体が重要な担い手となります。人間が必要とする福祉、医療、教育といったサービスを提供するのは、地方自治体だからです。可能な限り多くの住民に地方税の納税を求め、可能な限り多くの住民にサービスを提供していくことで、人間と人間の対立軸をなくしていきます。
大切なことは、あくまでも人間の必要を満たした「結果」として、格差が縮小するということです。格差の縮小は目的ではありません。弱者救済という古いタイプの格差是正は国がおこなうべきです。憲法25条に生存権が保障される以上は国が弱者を救済する義務を持つからです。
理屈で説明のできない理不尽さとは、私たちは闘わなければならない
いま多くの人びとが所得の低下に苦しみ、教育費や老後の生活不安に怯えています。追い詰められた人びとは、困っている人たちの利益を切り詰め、自分たちへの配分を増やすよう訴えます。分断社会は人間の悲鳴であふれているのです。無党派層・支持なし層とは、ムダの削減か弱者救済かという二者択一を迫られ、我慢を強いられ続けた多数派の静かな抵抗なのです。
もちろん必要主義には多くの異論があるでしょう。次回はその異論への反論を試みますが、でもその前に、僕は、社会的弱者の大部分が「運の悪さ」の結果だという事実を共有しておきたいと思います。生まれた家が貧しかった、生まれた時に障がいがあった、それだけの理由で人生が決まるとするならば、それは「不運」というより「理不尽」です。よりよい社会を目指す以上、理屈で説明のできない理不尽さとは、私たちは闘わなければなりません。この思いを分かち合いながら、最後に必要主義の功罪について考えてみることとしましょう。
<著者プロフィール>
井手 英策(いで えいさく)
1972年福岡県久留米市生まれ。東京大学経済学部卒業。同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。日本銀行金融研究所、東北学院大学、横浜国立大学を経て、慶應義塾大学経済学部教授。専門は財政社会学。著書にDeficits and Debt in Industrialized Democracies(Routledge)『経済の時代の終焉』『日本財政 転換の指針』(岩波書店)など。