前回、表現としての「自然」をテーマにお話をしてきました。恐ろしさがあるから美しい。両極を孕んでいるから成りたっているんだ。というようなお話をさせていただきました。文章の固い押し付けの美学になってしまったと反省、次回はもっと軽やかに楽しくと、「自然」の表現をテーマに、さらに展開してみようと思っていたところ、あの震災がやってきました。大自然の猛威、残酷さ、恐ろしさばかりが今もなお報道、表現されつづけています。今の段階で「自然」をテーマに、なんてやっても意味がありません。

直接被害に合わなかった人も、みんながいろんな方法で何かをしようとしていて、義援金を集める様々なアイデアや、ネットを活用した情報ボランティア、元気を取り戻してもらおうと歌をうたった人もいるし、スポーツ選手は試合で感動を届けようとしている。現地に入って芸を披露し、暗い避難所に明るい笑いを届けたモノマネ芸人もいました。震災後の笑いはとてもデリケートなものだったと思います。「笑いは生きていく意欲の交換でもあると、私たちは信じています。」というのは震災後、吉本興業が出した声明文でした。そのとうりだなあと思いました。

さまざまなジャンルの表現者がそれぞれのやり方で今もなお、励ましの表現をつづけています。すごいなあと思います。でも、多くの人は悩んだのではないかと思います。自分には何もできないと一緒になって落ち込んだ人もいることと思います。様々な支援の表現、具体的な行動ができる人を、すごいなあと思いながら、僕は何をしているのか。何もできないでいます。

こんな僕のところにも、毎日のようにチャリティー、ボランティア関連の創作の依頼メールがあります。ありがたいことですし、お役にたてることがあれば何でもやりたいですが、情けないことに意欲が沸きません。今、何か自分なりの表現をしたいとも思いません。大自然が巻き起こす残酷な表現を見ることで精一杯。音楽も聴けません。

でも、そんな中で気づくこともあります。やっぱりそうなんだと思っていることがあります。本来、表現の役割とはこんなふうに胸を突き刺すようなものなのだと身に沁みております。「人間の手には負えない表現」はほんとうにすごいです。東京は震度5だったけど、東京に住んで22年、震度5は未体験でした。長い揺れの中、ぼくは家の中にいたのですが、ものは倒れ、水槽の水が波打ち溢れ出し、床が水浸し、床にはパソコンなどの電源ケーブルなどがあったので、漏電してはいけないと拾いあげたとたん、バチッ!っと感電。そんな中、危険を感じた自分の生命から、どこからかその底に溜まっていたエネルギーが湧き上がるのをおぼえました。少し冷静になった今、あの湧き上がった生命感のことを考えるます。本来、創作の役割とはこういうものだ、魂が震え上がるようなもの、それを見た途端、腹の底から生きる意欲が起ち上がってくるようなもの。お洒落だとか、クールだとか、かわいいだとか、そんなクリエイションは役立たず、表現とは心底からの励ましであると、容赦なく突きつけられるものなんだなと思いました。

そんなことを思ったりもしましたが、今はまだ、被災された多くの方々を悼む時間にしようと思います。残酷すぎた大自然でしたが、今日もアホほど美しい夕焼けや星空、とんでもなく美しい姿をみせてくれているんだと思います。

自然は美しい、まだ時間はかかりそうですが、もう一度そう思えるようになることを願っています。

「ありし日の水景」(製作中だった水景画も震度5に耐えられず崩壊)

タナカカツキ


1966年、大阪府出身。弱冠18歳でマンガ家デビュー。以後、映像作家、アーティストとしても活躍。マンガ家として『オッス! トン子ちゃん』、『バカドリル』(天久聖一との共著)など作品多数。1995年に、フルCGアニメ『カエルマン』発売。CM、PV、テレビ番組のオープニングなど、様々な映像制作を手がける。映像作品『ALTOVISION』では「After Effects」や「3ds Max」を駆使して、斬新な映像表現に挑んだ。