発言がまたたく間に広まって思いがけない反応が返ってきたり、またはブログなどにコメントを残すときのIDとして使えると、ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)は便利だなぁと思う。しかし最近、SNSの機能追加が余計なものに感じることも少なくない。例えば、Facebookが映画配信やパートナーシップを通じた音楽ストリーミングサービスに乗り出した。ソーシャルグラフとビジネスを組み合わせることで「ユーザーにより便利なサービスを……」というのは分かるが、こうした話を聞くにつけ、自分のプライベートなネットワークがビジネスに侵略されているような気分になる。

そのように感じている人は少なからずいるようで、オンラインブックマークサービスPinboardを運営するMaciej Ceglowski氏がブログに書いたエッセイ「The Social Graph is Neither」が大きな反響を呼んでいる。今日のソーシャルグラフを「(ソーシャルでも、グラフでも)どちらでもない」とばっさり切り捨てている。

ソーシャルグラフとは、人同士がどのように関係しているかを表した関係図のことだ。2007年にFacebookのMark Zuckerberg氏が紹介したことで広く知られるようになり、いまや同社を象徴する言葉になっている。

2007年のFacebookのf8でソーシャルグラフを説明するMark Zuckerberg氏

ソーシャルグラフは、ドット(個人)を関係という線で結ぶ。「テッドはシルビアのために働いている」というような一方向のケースがあれば、「ボブと私は隣同士」というような相互的な結びつきもある。なぜグラフなのか? 「コンピュータに容易に理解させられるから、私たちのようなコンピュータおたくはグラフを好む」とCeglowski氏。その上で「すごい知性を備えているが、絶望的なほどの世間知らずばかりで……コンピュータおたくの集団にソーシャルソフトウエアを設計させるというのは、モルモン教徒のバーテンダーを雇うようなものだ」と指摘している。結果、今のソーシャルグラフはあまりにも未熟で、表面的なものにとどまっているというのだ。

何かをグラフとしてモデル化するなら、ノードとエッジを明確に定義しなければならない。今のソーシャルグラフにおいてノードは個人であり、エッジは友達リクエストやフォローなど様々だ。これは個々のソーシャルサイトでは上手く機能するが、大局的にはひどく曖昧なデータモデルである。例えば、ビジネスSNSのLinkedInで誰かからの招待状を受けるのと、マイクロブログTwitterの相互フォローは等しい関係と言えるか? ファンやフォロワーのような大まかな関係はどのように定義すべきか? そもそも、それらは複数のサービスで再利用可能なのか? 今日のソーシャルグラフのエッジを現実の関係に当てはめようとしたり、サービス互換を考えると次々と疑問が噴出する。

多くのソーシャルグラフは「友達の友達」のつながりをベースに広がっていくFOFA (Friend of a Friend)を土台にしている 。「趣味はxxx」「xxxに行った」というような人に関する情報をRDFで記述することで人の関係が広がる。逆に言えば、XMLスニペットが作られるような自発的で明確な行動しかソーシャルと見なされないことになる。しかし、人の関係はそんな外向きな行動だけから生まれるのでない。例えば、恋愛感情は大っぴらに表現するものではないが、人と人の大切な関係を築く行動につながる。

90年代後半のネット企業を彷彿させる今日のSNS

「グラフではない」「ソーシャルではない」の例を1つずつ紹介したが、Ceglowski氏はXFNやセマンティックWeb、時間の流れ、プライバシー問題など、様々な角度から現在のソーシャルグラフの未熟さを確かめ、真の意味で有用なソーシャルグラフを構築する難しさを語っている。長い英文であるが、興味のある方はぜひともエッセイの方を読んでほしい。

Ceglowski氏が挙げる今日のソーシャルグラフの問題は、人の関係という複雑なものを容易にモデル化しようとしているのが1つ。そしてもう1つ。結局のところソーシャルネットワーキングサイトの目的は、ニュースやクーポンを提供したり、ユーザーを企業ブランドに結びつけるというような営利であり、ユーザーが興味を持っていることや嗜好、収入、ソーシャルステータスなどをオープンに宣言させ、それらをため込めれば十分なのだと指摘している。「マーケティング業者が国勢調査をやっていると想像してほしい。それが(今の)ソーシャルグラフだ」とCeglowski氏。

全体的にFacebookのようなSNSを批判するような表現が連発されているが、同氏は基本的にソーシャルネットワーキングの成長・発達を論じている。今回、同氏のエッセイを取り上げたのは「オンラインコミュニティの歴史は繰り返される」という見方が面白かったからだ。例えば「Eve OnlineやWorld of Warcraftのようなゲームの世界が構築された背景は、メッセージボードに通じるものがある」としている。今日のソーシャルネットワーキングサイトについては、「90年代半ばのCompuServe、ProdigyまたはAOLのポジションに似ている。あの頃、どの企業もユーザーをインターネットに結ぶゲートウエイになろうとしてしのぎを削っていた。今にして思えば、彼らの行動はばかげていて、失敗して当然だったと思える……だが、あの頃だれも巨大なグローバルネットワークがどのようなものであるか分からなかった」と指摘している。

今の若い人は、90年代のCompuServeやAmerica Online (AOL)と言われてもピンと来ないと思うが、たしかに今日のSNSの競争は、パソコン通信からインターネットへの過渡期におけるネット企業の争いに似ている。今のFacebookのような存在だったのがAOLだ。米国のパソコン通信を制した同社は、本当に飛ぶ鳥を落とすような勢いだった。当時はまだインターネットへの接続はダイヤルアップであり、誰もがAOLの接続ソフトをインストールしてAOLに入会し、AOLでメールやインスタントメッセージを使い、AOLのアプリケーション内に用意された「Internet」というボタンからWebにアクセスしていた。まだWebコンテンツが少なく、AOLが提供するコンテンツの方がはるかに充実していたから、ブラウザからアクセスするWebはAOLのおまけでしかなかったのだ。米国においてAOLは、まさにネットへのゲートウエイだった。

AOLは圧倒的なユーザー数を武器に、サービス内で様々なコンテンツの提供に乗り出した。このあたりも今日のFacebookに似ている。そしてAOLの可能性に着目したTime Warnerとの合併を果たした。企業規模は異なるもののAOLの方が世間に対する影響力が大きく、新興企業が巨大メディアをコントロールする様は「小が大を飲み込む合併」と言われた。

ところがAOLの時代は瞬く間に終焉へと向かった。ITバブルが崩壊し、ブロードバンド時代が到来してAOLの専用ソフトを使わなくてもブラウザでリッチなコンテンツを楽しめるようになると、人々は制約のないWebに流れ、まるで氷河期を迎えて絶滅していく恐竜のようにAOLは衰退した。

90年代の終わり頃、数年後にAOLが大失速するとは誰も予想できなかったが、それは起こった。だから、数年後にFacebookも衰退し得ると言いたいのではない。今にして思えば、わざわざAOLのアプリケーション内からブラウザを利用するなんて面倒で制限だらけなことをよく受け入れていたと思うが、当時は賢くネットを使っていると誰もが思っていた。箱庭のようなAOLをネットの世界と見なし、(一般ユーザーだから当たり前だが...)オープンなWebがもたらす自由と可能性を想像できなかった。今のソーシャルグラフは、Facebookのような箱庭の中で活用できるものでしかない。FacebookやGoogle+に変わる存在が現れるのか、それともそれらが進化するのかは分からないが、そこからユーザーが踏み出していく変化は必然である。