「国立西洋美術館」に対して5月17日、世界遺産への登録可否を調査する国際的な諮問機関「イコモス」が日本政府に対して登録勧告を行った。2016年夏の世界遺産登録を目指していた「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の政府推薦が見送られる異例の事態となったので、2016年は日本から推薦される物件はないと思っていた人も多いのではないか。「長崎の教会群」の陰に隠れていたとも言える国立西洋美術館について、世界遺産に詳しい世界遺産アカデミー/世界遺産検定事務局の研究員・本田陽子さんにうかがった。

正面(ファサード)は地味だが、コルビュジエの特徴が随所に表れている

共同推薦は1国1推薦の枠から除外される

―「国立西洋美術館」が今年の推薦候補だったことはあまり知られていなかったように思いますが、「長崎の教会群」の代わりに推薦されたということなのでしょうか。

まず、世界遺産の推薦について設けられている制約についてお話しますと、現在一国から推薦できるのは、1年につき文化遺産1件、自然遺産1件なんですね。その推薦枠によって日本から「長崎の教会群」が推薦されていたのです。

一方、「国立西洋美術館」は世界に点在する「ル・コルビュジエの建築作品」の構成資産のひとつで、フランスが代表となり、スイス、ベルギー、ドイツ、アルゼンチン、インド、日本の7カ国・17資産の共同推薦となります。このような複数の国からの推薦の場合には、先ほどお話した推薦枠の制限がありません。ですから、「長崎の教会群」と「国立西洋美術館」はいずれも文化遺産でありながら、2016年の登録を目指して同時に推薦されていたんです。

─「長崎の教会群」は早くから話題になっており、今年2月の推薦取り下げも大きなニュースとなりましたが、「国立西洋美術館」はあまり話題になっていなかったような気がするのですが。

この共同推薦はもともとフランス政府からの提案によるもので、日本政府にしてみると「棚ボタ」だったんですね。通常であれば、日本からの推薦候補は政府の他に、その地域の自治体や地域住民、観光業の方など多くの関係者が登録前から盛り上げてPR活動にも務めますが、今回はそうした運動はあまり見られませんでした。上野を歩くと、「国立西洋美術館を世界遺産に」というノボリや旗が設置されていたり、遺産価値を伝えるためのセミナーなども多少は実施されていたりしますが、あまり大きな広がりにはならずに地道な活動だったという印象です。

常設展示室を入ってすぐの19世紀ホール。高さがあって気持ちのいい空間が広がっている

―ではあらためて、この遺産の価値について教えてください。

遺産名ともなっている「ル・コルビュジエ」(1887~1965年)は、"近代建築の巨匠"と言われる人です。スイス生まれで、のちにフランス国籍を取得しており、パリを拠点として世界各地に建築作品を残しています。コルビュジエは産業革命によって急速に進んだ建築の工業化を背景として、20世紀前半から、鉄筋コンクリートやガラスを用いて機能的かつ合理的な建築を設計します。

それまでのヨーロッパの伝統的な住宅といえば瓦・石材・ブロックなどを積み重ねてつくる構造(建物を壁によって支える)が一般的だったのですが、彼は床、柱、階段のみで構造的に自立する建築システムを考案したんです。それまでの伝統的、様式的な建築から脱した機能的な建築を目指す「近代建築運動」を推進した役割が大きく評価されました。初期の代表作「サヴォア邸」(1926年完成)には彼の特徴が非常によく表れています。

―どんな特徴があるのでしょうか?

国立西洋美術館にも用いられているのですが、1階部分は柱だけの空間として2階以上の部分を支える形式(ピロティ)となっていたり、屋上には都会でも自然を感じることのできる庭園があったりします(現在は立ち入り禁止)。また、建物を壁ではなくて柱で支えることによって、正面(ファサード)は自由にデザインできるようになりましたし、建物の内部も自由な形の部屋をつくることができるんです。

ここは美術館なので、自然採光は絵画を傷めることから正面に窓はありませんが、他の代表作には光や風がたくさん入る横長の窓があります。これらの構造はいずれもコルビュジエが考え出したことで「近代建築の五原則」と言って、のちの建築に非常に大きな影響を与えました。今、私たちが生活している空間は、コルビュジエの発想の延長線上にあるといっても過言ではないかもしれません。