通勤中にiPhoneで書いた小説がデビュー作となった作家・藤井大洋は、2012年発表の短編『UNDER GROUND MARKET』で、ロスジェネが40~50代になった少し未来を舞台に、オフィスを持たずに仕事をし仮想通貨で収入を得る若者を描いた。パソコンはプログラマなど特殊な職業の人しか使わないデバイスになった時代。主人公の青年はコーヒーを片手に『俺だってクライアントが電子メールにパソコン用の添付ファイルなんてアホらしい方法で連絡してくるんじゃなければタブレットで済ませたい』とボヤく。彼が手にしているのは、MacBookだ。

個性的というより、ダメな部分が無いことが個性といえるデザイン。キレイよりもスゴイという印象だ

MacBook Airとの比較。ポートがないとパソコンらしいディテールが見つからない

ほんの数年前、iPhoneはAppleファンという特殊な人が買う特殊なデバイスだった。現在は逆に、iPhoneで初めてApple製品に触れた人が、自分用のパソコンとしてMacを使い始めるケースが増えているという。確かに、iCloudやiTunesの連携を考えると、iPhoneユーザーに最適なパソコンがMacであることは間違いない。ミュージックやブックといったコンテンツばかりでなく、Mac OSに「写真」アプリが導入されたことで、iPhoneで撮った写真も意識しないうちにMacとも共有されるようになった。Appleの敷いた円環に乗っている限り、オフィスなのかリビングなのか電車の中なのかという利用環境によってデバイスを使い分けるにすぎない、シームレスな世界に生きることができるのだ。

……という感想を持つこと自体が、すでに旧世代の発想なのだろう。iPhoneで初めてデータやネットワークの世界に触れた人にとって、おそらくデバイスとは「そういうもの」であり、そうできないことのほうが「おかしい」はずだ。

SCSIに数々のストレージを連結し、USB2.0やFireWireなどといった規格に翻弄されてきた我々は、テクノロジーの進化によりそうした機器から解放されたつもりでいたが、実は本質的なところでデバイスという重力から抜け出せない宿命を背負っているのではないだろうか。新しいMacBookの身軽さときたら、そのマインドを否定するどころか、初めから存在しないものとして設計された、全く思想の異なるデバイスであるように見えるのだ。

スティーブ・ジョブズはMacBook Airを茶封筒から取り出すパフォーマンスで薄さをアピールしたが、MacBookはクリアホルダーに挟める

ポートが電源/データ共有で一つしかない仕様も、iPhoneとの共生が前提なら何も不便はない。そもそも全部iCloudに入っているのだから、どんな外部装置とも有線でつなぐ必要がないのだ。写真もスキャナ代わりの画像も撮ったそばから自動的に入ってくるし、アプリケーションはダウンロードで入手でき、プリンタはAirPrintで済む。ストレージは256/512GBもあれば相当なものだが、足りなければクラウドに入れておけばいい。音楽や映像はiTunes Storeで買ってもらわなくては困る。大画面が必要ならばApple TVが用意されている。そのiPhone的な発想でノートPCを設計すれば、MacBookがこの姿であることは必然の決着であると考えざるをえない。色が合っている、みたいな表面的な話ではないのだ(もちろんそれは、iPhone先行のユーザーにとって強力な選択理由になり得るが)。

そうは言っても、これまでのハード的データ的資産を引き継がねばならない我々がいる。MacBookを買ったからといってプリンタをAirPrint対応に買い替えたり、光学ドライブや外部ディスプレイをつなぐために変換コネクタを買いそろえたりしていては、たまったものではない。次にMacBookがリニューアルした時には、新たにUSBコネクタや光学ドライブ搭載の上位モデルが出るだろうか。いや、それはないだろう。Appleは(少なくともMacBookにおいては)、ハード的な拡張性にもはや用はないと言っているのだ。FireWireやZIPドライブの顛末、OS X移行などなど、一度やると決めたAppleの早さは十分身にしみているはずだ。

拡張性を捨てることは、即ちAppleの敷いた円環に全てを持って乗り込むしかないということだ。App Storeでアプリケーションを買い、iTunes Storeで音楽を買い、iCloudに容量を追加してデータを預ける。iPhoneではごく自然に、必然的にそうしていることを、MacBookでも行うだけのこと。パソコンより先にiPhoneを使い始めた世代なら、なんの躊躇もなくそれを受け入れるだろう。むしろそれ以外の選択肢に気付く余地がない。だが、その円環に連れ込めないハード的データ的資産を背負う我々世代はどうか。その判断が、MacBookに対する評価の分かれ目になるだろう。

MacBookのハード面を見るならば、多くのITジャーナリストが言うように非常に良くできたデバイスだと思う。これまでのどのMacよりも薄く軽く洗練され、液晶は美しいしバッテリーはものすごくタフだ。CPUやグラフィックのスペックは控えめといえど、これで足りない用途を持つ人はラップトップのニーズ全体の何割を占めるだろうか。ポテトチップスを割るような薄いクリック感のキーボードも、ソフトウェアキーボードに慣れた手には十分すぎる重さのはずだ。

賛否ある極薄キーボード。"筆圧"が低めの筆者にとっては程よい感触

トラックパッドは広く。iPhone 6の画面ほどの面積がある

MacBookは、iPhoneファミリーとして作られたMacであると筆者は考える。そこに乗れるか乗れないかはユーザー次第。乗ってしまえばまさにiPhoneやiPadとシームレスにつながる環境がパソコンまで延長された快適さを味わえる。しかし、Appleの円環に電子デバイス的アイデンティティーを委ねなくてはならないというコンセプトに違和感があるなら、あるいはポートの数やキーボードといったハード的スペックに不安な部分があるなら、見た目や新しさだけで無理に選択しないほうがいい。モノが良いとか悪いということではなく、パラダイムが違うデバイスなのだ。