京都市の地図を見てみると、左京区が右側、右京区が左側という位置関係になっている。また、京都市内の建物の住所には、「丸太町通七本松西入ル」や「西堀川通御池下ル」など、“西入ル”やら“下ル”といった見慣れない表記が入っていることがよくある。これらはなぜなのか?
基準は大極殿に鎮座する天皇の視点
中国の古典に「天子、南面す」という言葉がある。君主は北を背に南に向かって君臨し、政務を司(つかさど)るしきたりがあったのだ。長安など古代中国の王城都市はこれに従い、都の北部中央に王が鎮座する宮城が位置し、そこから南に向かって区画が広がる造りとなっていた。
中国の都に倣(なら)って築かれた平安京ももちろん同様である。そして、北端中央の内裏から南に向かって都を見渡した天皇の視点を基準に、中央の朱雀大路より左手は左京、右手は右京と呼ばれるようになった。
この名残が京都市の区名として引き継がれ、地図を見て右側が左京区、左が右京区となっているというわけである。なお、現在の左京区、右京区のうち、かつて平安京があったところから見て右側、左側にあたるのはごく一部で、両区とも大部分は市内北部の山側に広がっている。
「上ル・下ル・西入ル・東入ル」とは?
京都市内の住所表記には、他では見られない特徴がある。例えば京都市役所の住所なら「京都市中京区寺町通御池上ル上本能寺前町488番地」となるのだが、途中に「上ル」という文言が入っていることに気づくだろうか?
これは京都においてのみ流通している住所表記の特徴で、先ほどの住所の場合、「京都市中京区の寺町通と御池通の交差点を北に行ったところにある上本能寺前町488番地」という意味になる。
つまり、“寺町通御池上ル”の部分は、「通り名1[寺町通]」+「通り名2[御池(通)]」+「方角[上ル]」という構成になっているのだ。おおむね、「当該建物と直接面している通り」か「南北の通り」を先に記し、その後に「通り名1と交差し、当該建物に近い方の通り」を記すというのが基本的な法則となっている。
そして、通り名1と通り名2が交差している地点からみて当該建物が北側にあれば「上ル(あがる)」、南側にあれば「下ル(さがる)」、東側なら「東入ル(ひがしいる)」、西側なら「西入ル(にしいる)」と続くわけである。なお、送り仮名の「ル(る)」は省かれることもある。
これは京都市内、特にかつての平安京に該当する範囲においては、東西南北の通りが碁盤の目のようにほぼ直角に交差しており、それぞれの通りに固有の名称が付いているからこそ成立する住所表記である。通りが座標軸のような役割を果たしているわけだ。
なぜ京都市は町名が異常に多いのか
先ほどの京都市役所の住所「京都市中京区寺町通御池上ル上本能寺前町488番地」を他府県と同様に表記すると、“寺町通御池上ル”の部分が省かれ、「京都市中京区上本能寺前町488番地」となる。すると、町名の後に「○丁目」に該当する数字がないことに気づくだろう。
現在政令指定都市を含む日本の多くの都市部で採用されている「住居表示」は通常、○町までが大きな区分けとなり、そこから1丁目、2丁目……と細かな区分けがなされ、さらに○番地で絞り込まれる仕組みとなっている。
しかし、京都市は現在の政令指定都市の中で唯一、この「住居表示」を採用していない。そのため、町の区分けの再編成が行われず、基本的には昔ながらの細かく分かれた町名のまま現在に至っている。いわば、「住居表示」における○丁目に該当する区画のそれぞれに、個別の町名が付いているようなものだ。
しかも京都市はもともと、町の区割りが非常に細かい構成になっているため、他の都市に比べて町名の数が異常なほど多い。また、昔ながらの町名はそもそも郵便制度などを考慮して付けられたものではないので、同じ区内に全く同じ町名が複数存在するということも珍しくない。
例えば、中京区は東京23区で最も狭い台東区よりも小さい面積(7.38平方キロメートル)だが、その中に500近くもの町名があり、八百屋町が2カ所、油屋町が3カ所、そして亀屋町が5カ所もある。また、上京区には亀屋町が4カ所、東町が3カ所といった具合である。こうしたことから、「○○町△△番地」だけでは、地元民でさえ非常に場所が特定しにくい。そこで昔から親しまれてきたのが、“寺町通御池上ル”という表記だったのだ。
京都市があえてこのようなスタイルを貫いているのは、歴史ある町名や通り名、そしてそれらと密着した暮らしが消えゆくことに反対する地元住民が望んだことでもある。自治体も街の近代化を進める一方、そうした住民の声および京都の歴史と文化を尊重したのである。
上ル・下ルは地理上の高低差によるもの
ちなみに、西入ル、東入ルはともかく、なぜ北側が上ル、南側が下ルで表されるのか? 古くから天皇のいるところへ向かうのは「上(のぼ)る」、その逆を「下る」と表現する歴史があり、最北部に内裏(天皇の居所)がある平安京においては、北側へ向かうことは天皇のそばに近づくことになるから、「北側=上ル、南側=下ル」となったという説がある。
しかし、より有力な説は地理的事情によるものだ。「北に山、南に湖沼」といった風水に基づく立地条件を満たす場所として、平安京造営に選ばれたと言われている京都盆地を例にしてみよう。愛宕山、岩倉山など北部に山が連なり、そして南には当時巨椋池があったこの土地は、南側が低地で北に向かって緩やかな傾斜で高くなっている。この高低差から、北側は上ル、南側は下ルと表現されたというわけだ。
「○○通△△上ル」といった表記はカーナビなどでは認識されないことが多く、他地域の者にとっては逆に不便かもしれない。しかしこれもひとつの“京都らしさ”を感じられるご当地名物として、やはり大切にすべきものではないだろうか。