――狂言と映画で、演じることに何か違いはあるのでしょうか?

「狂言は演出家がいないので基本的に自分を信じるしかないけど、映画は監督がジャッジするので、いろいろなことが試せる面白さはありますよね。監督がOKすればそれでいいし、『ダメ』と言われれば『はい、そうですか』と引っ込めればいいですから。とにかく撮影現場では集中していました。一回もセリフを間違わなかったですし。まぁ、そんなにしゃべってないというのもあるけど(笑)。アグレッシブかつポジティブな現場でしたよ。精神的にタフな犬童(一心)監督と肉体的にタフな樋口(真嗣)監督、二人の監督がとにかくパワフルで、長時間に渡る撮影でもくたびれないから、その高揚感に乗って乗り切れた感はありますね」

――ところで、長親の"浮いている感"は、ご自身のキャラと被る部分もあるのでは?

「うーん、言われてみると確かに昔からそういうところはあったかもしれない。中学生の時は休み時間に朝礼台の上でに寸劇みたいなことをやったり、休み時間のチャイムが鳴る寸前に教室を飛び出して女子トイレに隠れて涼しい顔で出て来たり…。今、思えば何の意味があったのかと思いますけどね(笑)」

――もしかするとそれは「狂言師」としてのプライドというか、信念にも通じるのでしょうか。

「とにかく見慣れてしまって予測がついてしまうのが嫌いなんですよ。人の心をつかむためにはどういう"間"がいいのか、どういうスピード感やエネルギーの入れ方がいいのか常に考えているし、その意味で駆け引きは重要ですよね。ただ、『狂言』という固定観念を覆したい、という気持ちを持ちつつも、しっかり『芸』として残し、多くの人に見せていきたい気持ちもある。自分はあくまで古典に乗っ取った『狂言師』として王道にいるつもりですが、そこだけに留まることなく、『珍しいこと』には常に取り組んでいきたいですね」


まさに映画の中の長親のように、冗談を交えつつ一見つかみどころのないように見えながらも、本質を突いた一言をさらりと言い放つ。予測不能の真面目さとでも言おうか、そんな彼のミステリアスで人間くさい部分が、多くの人の心をとらえて離さないのだろう。