保存・復原工事が行われてきた東京駅丸の内駅舎が1日、いよいよグランドオープンを迎える。これに先駆けて報道公開も行われ、普段見ることのできない駅長室や、新設された外国人旅行者向けトラベルセンター、リニューアルされた美術館などが公開された。本稿ではその模様を紹介しよう。
「復原」工事で何が変わったか?
東京駅についておさらいすると、開業は1914(大正3)年12月20日。それまで東北方面、東海道方面、甲州方面のそれぞれに置かれていた起点駅を結ぶ中央駅として誕生した。とくに丸の内駅舎は皇居を向く表玄関として、ビクトリアン・ゴシックを得意とする辰野金吾氏によって設計された。しかしその立派な建物は、第2次世界大戦の東京大空襲によって3階部分が消失。応急処置として2階建てで修復された。
この"修復版"駅舎は戦後60年以上にわたって使われ続け、老朽化や耐震上の懸念もあった。国鉄が分割・民営化されてJRになったとき、建て替えて高層ビルにする案もあったという。しかし、赤レンガ駅舎を保存する声が高まり、JR東日本による歴史的価値の見直しや、政府による周辺再開発構想の後押しもあって、1999年に建設当時の姿への「復原」が決まった。一般に建物の修復には「復元」を用いるけれど、丸の内駅舎に関しては、「改造された部分を原型に戻す」という意味で、「復原」を用いているとのこと。
ほとんどの人々が"修復版"の2階建て駅舎を見てきたわけで、おなじみの東京駅丸の内駅舎といえば2階建てのほうだ。したがって今回の保存・復原工事は、ほとんどの人々にとって「元に戻った」というより「変わった」「新しくなった」というとらえ方になるだろう。
東京駅丸の内駅舎の保存・復原工事は2007年に開始されて以来、5年間にわたって続いた。駅舎の主要施設だった東京駅ステーションホテルと東京駅ステーションギャラリーは休館となったが、丸の内中央口、丸の内北口、丸の内南口は最低限の閉鎖のみで工事が行われた。施工には鹿島建設、清水建設、鉄建建設の共同企業体が担当した。東京駅は1日あたり約38万人が改札口を通過し、乗換客を含めると百数十万人の利用があるという。夜間の工事は1日3時間のみ。5年間にわたり、膨大な利用客の安全を確保したまま工事が進められた。その安全に対する技術や配慮も高く評価されるべきだろう。
さて、今回の工事のおもな内容として、「復原」「保存」「新設」の3つに分けられる。「復原」は消失した3階部分だ。2階建て時代からは増床となり、東京ステーションホテルと東京ステーションギャラリーに充てられている。躯体は鉄筋コンクリートとなっており、最新の構造技術だ。じつは丸の内駅舎を設計した辰野金吾氏は、当時のコンクリート技術に懐疑的だったといわれており、駅舎には最低限のコンクリートしか使われなかったという。
外観からもわかるように、ドーム部分は八角屋根からほぼ丸型になった。ドーム直下には採光窓がつくられ、ここからの光は1階コンコースまで届く。北ドームはかつて東京車掌区や鉄道警察隊があり、映画やドラマでも紹介されていたが、新レイアウトでは鉄道業務に関する区画は1階に集中されている。駅舎中央部分の高い屋根の内部、これまで物置として使われていた場所はホテルのアトリウム(朝食用ラウンジ)になっている。
「復原」された3階に対して、1階と2階は「保存」工事が行われた。鉄筋コンクリートも使われているものの、おもな構造体はレンガによるもの。外観は構造用のレンガの外側に化粧レンガを貼りつけた「保存外壁」となっている。外から見える柱も創建時の姿に戻し、戦後の修復時に柱のトップエンドに移された飾り柱頭は3階トップに戻されている。駅舎の外観をよく見ると、古く残した部分と新しく修復された部分で色味の違いがある。しかしそれも年月を経て調和していくことだろう。
保存・復原工事にあわせて、コンコース1階の線路側の壁は撤去。中央線高架橋と駅舎の間に外光を取り込む屋根が設けられた。コンコースからも赤レンガ駅舎の壁が見えるほか、駅舎側にトイレを設けてコンコースから利用できるなど、一体となった空間ができている。
「新設」された部分は、我々利用者の目に触れない地下である。従来、地下は北側に総武線地下ホームがあり、中央寄りに総武線ホーム行き大階段と中央連絡通路があった。今回の工事では、これ以外の地下1~2階に鉄筋コンクリートの巨大な躯体がつくられた。その一部にレストランエリアとフィットネス&スパが設置されている。
その他の広大な空間については公開されなかったものの、今後、一般客が利用できる設備になるのかどうか、楽しみである。