堀高明代表取締役社長とともにスターフライヤーを立ち上げたひとりとして、スターフライヤー創業の歴史をここに記していこうと思う。前回、2003年12月に「株式会社スターフライヤー」の立ち上げを社会に宣言するまでの話に触れた。そしてここから、長く苦しい資金集めがスタートする。
資金集めの理想と現実
航空事業をはじめるにあたって必要な初期資金は60億円とした。先発他社の事例を横目に事業計画を組み、開業までに行うべきことを網羅した数字でもあり、事業免許を当局から出してもらう上でも、出資者側が不安を持たずに意思決定できる上でも必要なレベルだと考えたのだった。最初の企画書では30億円を出資で残り半分を間接金融でまかなうとしていたのだが、これは早い内に無理と判明する。
市役所のアレンジで都銀や地元地銀と話をしてみると、各行は異口同音に「資産の裏付けのないプロジェクトファイアンスをベンチャーに対して行うことは不可能」との返事。それならば、ということで航空会社時代の知己を通じ政府系の銀行とも話をしたが、なんと都銀・地銀以上に保守的で、リスクをカバーする担保や補償を厳しく求めてくる。
たった1回の面談でこれでは融資を受けるのは絶望的なことが分かり、困り果てると同時に、「政府系銀行の仕事って何なんだろう。そんな確実の塊のような融資しか実行しないのであれば、銀行業務にいるのは猜疑心と計数の細かさだけじゃないか」と、なかば八つ当たりで思ったものだ。かくして、60億円を全額資本金で集めなくてはならなくなった。
地元の有力企業5社の出資が決まる
話を初期の出資集めに戻そう。2003年末の記者会見で新航空会社設立をぶち上げたのはいいが、個々の地元企業との出資の打診などその時点では全くできておらず、各社の窓口への入り方も分からない。そこで、堀社長が地元財界のキーパーソンと言われていたゼンリンの会長にご指導を仰ぎ、主要企業が集う市の商工会議所三役会で事業説明と出資のお願いをさせていただいた。
やや重苦しい場ではあったが北九州市長からの後押しもいただき、2004年3月に地元の有力企業5社(TOTO、安川電機、第一交通、ゼンリン、山口銀行)等から2億1,000万円の出資を得て始めての増資を実施した。やっと会社として動き出す骨格ができたわけである。
そこで創立メンバーはいよいよ小倉に居を構え(皆、単身赴任であったが)、新小倉ビルの一室に本社事務所を開いて、昼夜を問わず北九州の人間関係、義理人情、芋焼酎の世界にどっぷり浸かり、「脱大手・独自モデルのエアライン」を目指して走り始めたのだった。この時点で、新北九州空港の開港・初便就航まで2年を切っていた。
新興各社の"失敗の理由"
出資要請をするにはまず事業計画書を練り直さねばならなかった。いくらきれいごとの理想像を並べても、投資側からは「そんなにうまく行くわけがない。現にこれまでの新興エアラインは皆失敗しているではないか」と言われる。
そこで新興各社の"失敗の理由"を調べて反面教師にし、我々はそれを繰り返さないというロジックで攻めることにした。スカイマーク、エアドゥ、スカイネットアジア航空とも創業者グループは航空業界出身ではない。これには業界の悪弊にとらわれないといういい面もある一方、やはり難しいことの方が多い。
航空会社を始めるには航空局から事業免許の認可を受けるという、最初にして最大の関門がある。この折衝は想像を絶するストレスを伴うもので、特に相手が素人だと思うと局の指導・検証は熾烈を極め、非常に細かいものになる。「勉強して出直してこい」というわけだ。
特に安全に関わる許認可においては、現場の担当官の心証を害するととんでもないことになる。この結果事業認可までの時間がかかってしまい、機材費・人件費などの固定費がどんどんかさんでいくのだ。また、現実の整備・運航体制を築く上で、当局に納得してもらうためどうしても大手の支援を仰ぐことになる。この委託費がかなり高額な価格になるため事業費が肥大化し、赤字体質になっていくのだ。
「我々は航空のプロでありこういう轍(てつ)は踏まない」と宣言し、「単一路線で24時間運航」「革張りでゆったりした座席間隔」「大手より割安な運賃」という差別化要素を加え、何とか20ページの事業計画書が出来上がった。
地元企業の暖かさとは真逆の機関投資家
地元への出資要請は、北九州市役所の片山憲一室長率いる企画政策室が我々の立ち上げを全面的に支援してくれた。まず市役所が連絡して玄関を開けてくれて、そこに我々が乗り込むという二人三脚方式をとったのでスムーズに面会ができ、これは本当にありがたかった。純粋な投資という側面以上に地元振興に協力するという大義があったためか、各社は暖かい気持ちで話を聞いてくれ、要請が空振りに終わるのは訪問企業の半分以下だったと記憶している。
他方、首都圏での機関投資家への説明は全く様相が違った。はなから我々に懐疑的なスタンスで、事業計画がどうと言うよりも「事業がうまくいかなかった時に誰かが救ってくれるのか」がまずもっての関心事だった。
市や地元企業が支えてくれるといってもそれが事業の成功を保証するわけではない、投資家としてリスクをとる決断をするには材料不足、という指摘がほとんどだった。「これはなにか大きなきっかけがないと先は厳しいな」というのが、経営陣に共通した認識となっていった。
※本文に登場する人物の立場・肩書等は全て当時のもの
筆者プロフィール: 武藤康史
航空ビジネスアドバイザー。大手エアラインから独立してスターフライヤーを創業。30年以上におよぶ航空会社経験をもとに、業界の異端児とも呼ばれる独自の経営感覚で国内外のアビエーション関係のビジネス創造を手がける。「航空業界をより経営目線で知り、理解してもらう」ことを目指し、航空ビジネスのコメンテーターとしても活躍している。