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PCがITのプラットフォームとして爆発的に成長する中、Intelはそれまでの16ビットの80286プロセッサの次期製品、32ビットの80386の開発を終え、1985年10月に16MHz版の最初の製品を正式にリリースした。

一方のAMDはそのころ80286の16MHz版を市場投入していた。当時のアプリケーションには32ビットのビット幅に対応するものは少なく、性能が高く安価なAMDの80286-16MHzは市場でかなり健闘した。その当時の私が手掛けた広告が残っているので掲載しておく。

80286-16MHzの広告

前述の通り、当初はIntelとAMDはx86アーキテクチャの普及で協業したわけだが、80286の普及によりx86アーキテクチャが業界標準となった時点で、IntelにはもはやAMDは邪魔者でしかなかった。そこでIntelは有名な"286X キャンペーン"を大々的に開始する。新製品80386をライセンスしないことでAMDを32ビット製品から締め出すことに加えて、自らが生んだ既存製品80286を否定することによって、AMDを一緒に葬り去ろうという強烈なものであった。286と書いた上に大きく赤のXを付けて、"これからは32ビットの80386の時代です"と書いてある。後にIntel Insideというキャンペーンに発展したものである。

AMDにあって、Intelとの市場での競争に明け暮れた私にとって、Intelは常に大きな脅威であったが、このキャンペーンを初めて目にしたときには本当に驚いた。自らの市場での優位性を維持するために自らが生んだアーキテクチャを殺しにかかる、まるでギリシャ神話にでも出てくるようなテーマに、Intelという会社の徹底ぶりにショックを受けたのを覚えている。

当時のIntelのCEOであったAndy Groveは後にリーダーシップに関する本を書いたが、そのタイトルは"Only the Paranoid Survive(偏執狂だけが生き残る)"であったことを考えるとうなずける点もある。

独自開発に着手 – コードネームは「Longhorn」

Intelからの80386のライセンスを断念せざるを得なかったAMDは独自開発の80386互換のプロセッサの開発に着手する。テキサスの開発チームに因んで開発コードネームは"Longhorn"と決まった。リーダーは当時まだ30代のBen Oliver、Oliverを支えるのはAMDプロセッサ設計部隊から選ばれた血気盛んな精鋭チームであった。ただし、いくら能力があっても一つだけユニークな条件が付いていた、"Intel社に勤務する親類縁者がいないこと"。

AMDは80386の互換製品独自開発について"リバースエンジニアリング (Reverse Engineering)"の手法を用いた。クリーンルーム版と別名されるこの手法を辞書で調べると、"Reverse engineeringとは、機械を分解したり、製品の動作を観察したり、ソフトウェアの動作を解析するなどして、製品の構造を分析し、そこから製造方法や動作原理、設計図、ソースコードなどを調査する事である"とある。クリーンルーム版と言う意味は、設計エンジニアたちは設計室に入る時と退出する時に身体検査をされ、何も持ち込まない、何も持ち出さないということを徹底することである。

つまり、普通のものづくりの方法は、まず設計図があり、それに基づいて製品を作っていくのであるが、この場合はまず製品(30386)があり、それがどういう設計で作られたのかの情報なしに、公開された情報だけをもとにその当該製品と同じものを作ることである。AMDが与えられた公開された情報で一番有力なものは2つである。

  1. 80386のデータシート、ユーザーマニュアルなどの資料
  2. 80386そのもの

データシート、ユーザーマニュアルは、80386の内部の機能ブロック図、どのピンからどんな信号が入ればどんな信号を吐き出すのか、といったCPUを使ってPCを開発するハード、ソフトの設計エンジニアたちに必要な基本情報が書いてある公開文書である。

(次回は6月15日に掲載予定です。)

著者プロフィール

吉川明日論(よしかわあすろん)
1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Devices)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。その後も半導体業界で勤務したが、今年(2016年)還暦を迎え引退。現在はある大学に学士入学、人文科学の勉強にいそしむ。
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