東京大学(東大)は7月3日、金表面に吸着した鉄フタロシアニン分子に走査トンネル顕微鏡(STM)の針を近づけ、鉄原子の位置をサブオングストロームスケールで制御することで、分子のスピン状態を可逆的に変化させることに成功したと発表した。

同成果は、東京大学大学院新領域創成科学研究科の博士課程 平岡諒一氏(研究当時)、同研究科 高木紀明准教授、同工学系研究科 南谷英美講師、物質・材料研究機構 荒船竜一主任研究員らの研究グループによるもので、6月30日付けの英国科学誌「Nature Communications 」に掲載された。

典型的な磁性分子である鉄フタロシアニンが金表面に吸着すると、分子内の鉄原子に局在するスピンと金表面の伝導電子のスピンとの相互作用により近藤効果という量子多体効果が起こり、近藤共鳴状態という特徴的な電子状態が生じる。一方、金表面に吸着していない鉄フタロシアニン分子は、スピン軌道相互作用のためスピンが特定の方向に向く異方的なスピン状態をとることが知られている。このスピンの異方性は、近藤効果を抑制する働きがある。

金表面に吸着した鉄フタロシアニンでは、通常、近藤効果がスピン軌道相互作用よりも強く、近藤共鳴状態が生じているが、金表面と分子スピンの相互作用を制御し近藤効果を弱めてやれば、近藤効果とスピン軌道相互作用が拮抗し、近藤共鳴状態から異方的なスピン状態へと移り変わる量子相転移が起こると考えられる。

今回、同研究グループは、サブオングストロームの精度でSTMの針を鉄フタロシアニン分子の鉄原子に近づけることで鉄原子を持ち上げ、鉄原子と基板の金原子との間の結合を変化させると同時に、STMの針と吸着した鉄フタロシアニン分子の間を流れるトンネル電流を高精度に測定し、分子の電気伝導特性を調べた。

この結果、STMの針が分子から離れているときは、近藤効果に特有の電気伝導特性が観測され、針を分子に近づけるとまったく異なる伝導特性に変化することが明らかになった。また、この変化は、針と鉄原子の距離に応じて可逆的であることもわかった。

理論的に解析した結果、STMの針を分子に近づけたときに観測された伝導特性の変化は、鉄原子と基板金原子のあいだの距離が徐々に長くなるとともに、近藤効果が徐々に弱まりスピン軌道相互作用が相対的に強さを増すことで引き起こされたこと、すなわち近藤共鳴状態から異方的なスピン状態へ転移したことに対応することが明らかになった。

以上の結果から同研究グループは、STMの針を使って鉄原子をサブオングストロームのスケールで動かすことで、近藤効果が弱められ、近藤効果による量子多体状態からスピン軌道相互作用による異方的なスピン状態に量子相転移が起きたものと結論づけている。

STMを使った分子の構造変化によって引き起こされる量子相転移。STMの針が鉄フタロシアニン分子の鉄原子に近づくと、鉄原子が持ち上げられ、近藤効果がスピン軌道相互作用(SOI)に対して弱められる。このため、近藤効果による量子多体状態からスピン軌道相互作用による異方的なスピン状態に量子相転移が起こる (出所:東大Webサイト)