東京大学は7月26日、土壌に棲息する非寄生性の線虫「Caenorhabditis elegans(C.elegans)」が飼育された塩の濃度を記憶してそれと同じ環境を求めて移動することが見出され、その一連の行動がたった1個の味覚神経細胞の働きによって調節されていることを明らかにしたと発表した。

成果は、東大大学院 理学系研究科 生物化学専攻の國友博文助教、同・飯野雄一教授らの研究チームによるもの。研究の詳細な内容は、7月26日付けで英科学誌「Nature Communications」に掲載された。

動物は、生存に適した環境を求めて移動する能力を持つ。特にエサを探し出す行動と繁殖行動は種の存続に直接関わることから、下等な生物にもそれらの成功率を高めるための巧妙な仕組みが備わっている。今回の研究で対象とされた、土壌中で腐敗物につくバクテリアなどをエサとして生活している、体長1mmほどの生物であるC.elegansももちろんその例から漏れない。

C.elegansは1970年代に神経科学研究の優れた実験動物として認知されて以来、多くの研究者の手によって、神経細胞が情報を伝える仕組みや、神経回路が運動を制御する仕組みが、線虫を用いて明らかにされてきた。これらの研究の中で、匂いや味などの低分子の化学物質に対して誘引または忌避を示す行動である「化学走性」は、感覚器がエサなどの情報を感知し、神経回路がその情報を処理して適切に行動する一連の過程を研究するために適した行動として、頻繁に用いられてきたのである。しかし、脳が過去に経験した環境の条件を記憶し、現在の状況をその記憶と照らし合わせて、最も望ましい結果が得られるように行動を制御する仕組みは、これまでよくわかっていなかった。

そして低濃度の塩は、ほ乳類を含む多くの生物にとって生存に必須で、好ましい刺激だと考えられている。線虫にとっても、それは誘引性の(線虫を引き付ける)刺激であると思われてきた。ところが今回の研究で、「マシンビジョン」(研究チームが以前に開発した、画像処理によって線虫の運動を詳細に分析する装置)を用いて線虫の行動を詳細に観察することにより、線虫は必ずしも低濃度の塩に向かうとは限らないことがわかったのである。

塩に対する走性は過去に経験した塩の濃度の記憶に基づいており、エサを得ていた濃度を好み、エサを得られない、つまり空腹を経験した濃度を避けるように行動していることが見出されたのだ。すなわち、低い塩濃度でエサを食べていた線虫は低い塩濃度を好み、高い塩濃度でエサを食べていた線虫は高い塩濃度を好んだのである(画像1・2)。

塩に対する線虫の走性。エサを得ていた塩の濃度に向かい、空腹を経験した塩の濃度を避けるように移動する。画像1(左):エサを十分に与えた場合。画像2:空腹を経験させた場合

飼育の途中で濃度を変えると、数時間で新しい環境を記憶することも判明。個々の神経細胞を破壊する実験から、これらの行動はたった1つの味覚神経からの入力で制御されており、その細胞で働く「ジアシルグリセロール」(1分子のグリセリンに2分子の脂肪酸がエステル結合した化合物で、細胞内のシグナル伝達分子として働く)のシグナル伝達経路が塩濃度の好みを決めていることが明らかになった。画像3が線虫の頭部にある味覚神経(黄色)。写真右側にある楕円形の細胞体から左側の口先に向けて、神経突起が伸びている。

さらに、顕微鏡で神経細胞の活動をリアルタイムに観察する「ライブイメージング」や神経を人為的に活性化する実験から、経験に依存して異なる行動を示す原因の1つは、記憶された塩濃度と現在の塩濃度の差によって、味覚神経から下流の神経への情報伝達が変化するためであることも確かめられたのである。

画像4が、塩濃度の記憶により行動が変化する仕組みを表したもの。はじめに線虫は塩濃度の低い方へ移動していたとする。記憶されている(好ましい)塩の濃度よりも現在の濃度が低い場合にのみ、味覚神経の応答が介在神経へと伝達され、進行方向が修正されるというわけだ。

画像3。線虫の頭部にある味覚神経(黄色)。白線は10マイクロメートル

画像4。塩濃度の記憶により行動が変化する仕組み

記憶に基づく行動は、高等生物では、複雑な脳の働きによって作り出されると考えられている。ところが、冒頭で述べたように記憶は脳のどこに作られ、その記憶により行動がどのように調節されるのか、詳細はよくわかっていない。今回の研究成果は、動物に広く見られる同様な現象を理解するための基礎的な知見となり、記憶や学習の仕組みの解明に寄与すると期待されるという。また線虫は、農作物に大きな被害を与える害虫としても知られていることから、その行動様式の解明は、農作物の被害を食い止める技術開発にもつながる可能性があるとしている。