安倍首相が6月1日、2017年4月に予定していた消費税率10%への引き上げを2019年10月まで延期すると正式に表明しました。この連載の前号で「伊勢志摩サミットの終了後に消費増税延期を決定か」と書きましたが、その通りの展開となりました。
安倍首相が消費増税延期を決断したのは、やはり消費低迷が長引いていることが最大の理由です。そのような状態のままで消費増税を実施した場合、景気が完全に腰折れしてしまいかねません。そうなればデフレ脱却と日本経済再生は遠のいてしまいます。これは目先の景気だけではなく中長期的な視点からも重要なことで、消費増税延期は正しい判断だと思います。
消費増税延期への3つの批判
しかし今回の決定に対しさまざまな批判が出ているのも事実です。その主なものは、(1)アベノミクスの失敗だ(2)「2017年4月には必ず増税する」と言っていた前言を翻した公約違反だ(3)財政健全化が遠のき少子高齢化時代の社会保障充実もできなくなる――などです。これらの批判を検証しながら、それでも増税延期がなぜ妥当なのかを見てみましょう。
まず、(1)の批判です。これは、主として野党が批判しているもので、消費増税延期の理由である景気低迷はアベノミクスの失敗を意味しているということです。たしかに増税できない経済状況にあることは事実です。しかしそのことは「アベノミクスの力がまだ十分でない」とは言えますが、「失敗」とは言えないでしょう。
アベノミクスの評価についての詳細は別の機会に譲りたいと思いますが、少なくともアベノミクスが始まる前の日本経済が不況のどん底にあり、日経平均株価が8,000円台、円相場が1ドル=70円台の超円高に苦しんでいたことを思い出せば、現在の景気が格段に改善していることがわかります。そこは過小評価すべきではないでしょう。そのうえで「不十分」な点はまだ多いことを認識し、それを克服する方法を考えるのが妥当な議論だと思います。消費増税延期は、まさにその不十分さを克服するための重要な方法の一つと言えるものです。
続いて、(2)の批判です。安倍首相の発言だけを取り上げれば公約違反のように見えますが、今の経済状況を考えればやむを得ない判断でしょう。逆に前言に縛られて増税し経済に打撃を与える結果になった場合、そのほうが責任は重いということになります。
これら(1)(2)の批判はどちらかといえば政治的な色彩を帯びていますが、(3)の批判は財政のあり方をめぐる重要な論点です。現在の日本の財政赤字は膨大で、国・地方を合わせた公的債務残高(つまり借金の残高)は1,000兆円を超えており、GDP(名目)の約2.3倍に達しています。この比率はあのギリシャでさえ1.8倍ですから、日本の財政赤字はギリシャより深刻と言えるのです。そのうえ日本は少子高齢化によって社会保障費が年々膨らんでいるわけで、消費増税を先延ばしにすれば財政健全化は遠のき社会保障の充実もできなくなります。これが、増税延期への批判論の根拠となっています。
その観点だけから言えばその通りです。しかしやはり現在の日本経済の状況下で増税を実施して景気が落ち込めば、逆に税収が減り財政赤字はもっと増える可能性があります。少子高齢化を乗り切るための財源も、かえって確保できなくなる恐れがあるのです。そうなっては、安倍首相の言うように元も子もなくなってしまいます。
景気持続が財政健全化につながる
それよりも今は景気持続を優先するほうが重要だとの判断は妥当だと言えます。景気を持続することによって税収増加を図るほうが、むしろ財政健全化につながるわけです。
実は、もともと自民党内には消費増税に積極的な意見と消極的な意見があります。前者は財政健全化を重視する立場で、どちらかといえば多数派でしょう。現在の谷垣幹事長がその代表格ですが、その谷垣氏が野党だった自民党の総裁時代の2012年に、同じく財政健全化を強く主張していた民主党・野田首相と合意して消費税の8%・10%の2段階引き上げを決めたのでした(公明党も含めた3党合意)。この一連の流れには財務省の影響が大きいと指摘されています。
これに対し安倍首相はもともと消費増税には消極的、というより批判的でした。増税に頼るよりも経済成長を重視し、それによる税収増を重視する考え方です。
財務省主導で政策決定が進むことにも安倍首相は不快感を示していたと伝えられています。当初は2015年10月に実施する予定だった10%への引き上げを2017年4月に延期することを決めた(1回目の延期)のも、こうした考え方が背景にあったからです。
昨年10月頃からは、10%への引き上げ時の軽減税率導入をめぐり財務省が描いたシナリオをことごとく覆し、「外食を除く食品全般」を軽減税率の対象とする方針を官邸主導で決定しました。この時期の動きについて本連載の第44回(2015年10月22日付)で「2017年4月予定の増税自体の再延期もありうる」と書きましたが、今回についても、各種報道によると安倍首相は早い段階から増税延期のシナリオを描いてその検討を進めていたそうです。こうしてみると、安倍首相の判断と行動は一貫しているとも評価できます。
消費増税の合意はギリシャ危機が一つのきっかけ
そもそも2012年の消費増税の合意は、ギリシャ危機が一つのきっかけになっていました。「巨額の財政赤字を放置しているとギリシャのようになってしまう」という危機感が高まったからです。しかしギリシャ危機の本当の教訓は別のところにあると私は分析しています。
ギリシャでは危機が表面化する以前から長年にわたり非効率で既得権優先の経済運営が続き、経済を活性化させる成長戦略が欠如していました。経済は構造的に弱り切っていたのです。しかし財政再建のため増税と歳出削減という財政緊縮を強力に推し進めたことで、かえって景気を悪化させ、それがまた財政赤字を深刻化させたのです。これがギリシャ危機の本当の背景です(詳しくは、本連載第36回など、および別連載「これがギリシャ危機のすべて」を参照)。
したがって日本がギリシャ危機から真に学ぶべきことは、財政再建1本ヤリではなく、経済成長が不可欠だということです。財政再建は重要ですが、経済成長なしに財政再建もあり得ません。その両者を両立させながら、経済状況に応じて両者のかじ取りに緩急をつけていくことが重要なのです。今回の増税延期はこの点からも妥当な判断だといえます。
増税を延期しても財政健全化の姿勢
同時に安倍首相は、2020年度に基礎的財政収支(プライマリーバランス)を黒字化するとの目標は維持する方針も明らかにしています。プライマリーバランスとは「国債発行を除く歳入」から「過去に発行した国債の償還と金利支払い分を除く歳出」を差し引いた収支のことで、財政健全化の目安になるものです。黒字化の具体策はあいまいとの問題点は残りますが、増税を延期しても財政健全化を遅らせることはしないとの姿勢を示したことになります。
増税延期によって、今後の景気は現在以上の大幅な落ち込みは防げるでしょう。あとはそれを押し上げていけるかどうかです。消費税の8%から10%への引き上げによって4.5兆円程度の税収増が見込まれていたそうですから、増税延期によってその分の国民の負担増が当面なくなったことになります。それに加えて政府は秋に大型補正予算を編成する方針で、その規模は5~10兆円になる見込みです。これは安倍政権発足後では最大規模ですから、消費増税延期の効果と合わせて10兆円近くから15兆円近くの効果が期待できそうです。
ただ現在の消費低迷の背景には、多くの消費者が年金や社会保障、子育てなどの面で将来への不安を抱えていることがあります。したがって当面の景気対策だけではなく将来に安心感を与えられるような長期的な展望を示す必要があります。アベノミクスがあらためて力を発揮するには、これが課題となるでしょう。
執筆者プロフィール : 岡田 晃(おかだ あきら)
1971年慶應義塾大学経済学部卒業、日本経済新聞入社。記者、編集委員を経て、1991年にテレビ東京に異動。経済部長、テレビ東京アメリカ社長、理事・解説委員長などを歴任。「ワールドビジネスサテライト(WBS)」など数多くの経済番組のコメンテーターやプロデューサーをつとめた。2006年テレビ東京を退職、大阪経済大学客員教授に就任。現在は同大学で教鞭をとりながら経済評論家として活動中。MXテレビ「東京マーケットワイド」に出演。