先日、山口県主催の「明治150年記念シンポジウム」が山口市で開かれ、「明治維新から学ぶ日本経済再生の展望~地方創生のヒントここにあり~」というテーマで基調講演をしてきました。

山口県はかつての長州藩。吉田松陰をはじめ木戸孝允、高杉晋作、伊藤博文など数々の偉人を輩出し、薩摩と並んで明治維新の中心となったことは有名です。3年後の2018年に明治改元から150年を迎えることから、山口県はそうした先人の活躍を思い起こして地域活性化につなげようと、各種記念事業の展開を計画しており、そのスタートアップイベントとして同シンポジウムを開催したものです。

「明治150年記念シンポジウム」で基調講演をする筆者

同シンポジウムには500人近い人が参加し、私の基調講演に続いて、村岡嗣政・山口県知事、長州藩の歴史の専門家である道迫真吾氏(萩博物館主任学芸員)、幕末の長州藩とイギリスの関係などに詳しい田口由香氏(大島商船高等専門学校准教授)、それに私の4人によるパネルトークを行いました。

幕末の「薩長土肥」は各藩自力で経済活性化に成功

実は、「明治150年」は地元・山口県のみならず、日本全体にとっても大きな意味を持っています。私たちは過去の歴史を後世から見ているので、薩摩や長州が幕府を倒して明治維新を成し遂げたことを不思議とは感じないかもしれませんが、よくよく考えてみれば、これは「奇跡」に近かったのです。いくら幕府が弱体化していたとはいえ、江戸から遠く離れた一つの藩にすぎなかった薩摩や長州がなぜ討幕に成功したのでしょうか。直接的には、薩長などが幕府より政治的・軍事的に優位に立てたからですが、そのこと自体の背景に薩摩や長州の経済力の強化があったことを見逃してはなりません。

すでにペリー来航(1853年)以前から外国船が日本近海に出没するようになっていましたが、アヘン戦争(1840~1842年)で清国がイギリスに敗北したとの情報が日本にもたらされ、薩摩や長州など海に面した西国の諸藩では「欧米列強は次に我が国、我が藩を侵略するのではないか」と危機感が高まっていました。そこで自衛のために軍備強化に着手しました。しかしそのためには莫大なおカネが必要です。

長州藩はいち早く1830年代から藩政改革を実行し、赤字だった藩財政を立て直しに成功しました。また藩内の産業振興に力を入れ殖産興業を推進しました。今日で言えば経済活性化であり「成長戦略」です。これが実を結び、やがて討幕につながったのです。これは討幕派の中心となった薩摩、肥前(佐賀)、土佐(高知)などに共通しています。逆に言えば、成長戦略をしっかり実現した藩が時代の主役になれたのでした。

しかもそれらはすべて、それぞれの藩単独の力です。国からの補助金も地方交付税もありません。つまり藩という一地方が100%自力で経済活性化を成し遂げたわけで、いわば「地方創生」のモデルケースでもあったと言えるでしょう。そのような藩が連合して勝利したのが明治維新だったという言い方もできます。

「成長戦略」と「地方創生」を成功させたもう一つの要因は「グローバル戦略」

この「成長戦略」と「地方創生」を成功させたもう一つの要因は「グローバル戦略」でした。長州藩は当初は攘夷を主張していました。「外国からの侵略を防ぐため外国人を実力で追い出せ」というもので、特に幕府が1858年に日米通商修好条約を締結してからは「朝廷の許しを得ないまま幕府が勝手に条約を結んだのはけしからん」と反発が強まり、攘夷論が反幕府と結びついていきました。長州藩は一時は藩論を攘夷に統一し、1863年には下関海峡を通過中の外国商船に向かって沿岸から砲撃をしかけたほどです。

しかしその翌年(1864年)、米仏など4カ国の艦隊から報復攻撃を受けました(下関戦争)。砲台をフランス兵に占拠されて大砲を破壊され、藩所有の船も撃沈、周辺の民家も焼かれるという屈辱を味わいます。これによって長州藩は欧米の軍事力との差を見せつけられ、攘夷など不可能であることを思い知らされたのでした。

これを機に長州藩はイギリスなどからの技術導入へと一気に舵を切りました。外国に負けないためには攘夷ではなく、自らの力を強くすることが不可欠だと悟ったのです。そして欧米の力を受け入れて経済力と軍事力を強化するという路線に転換しました。まさに「グローバル路線」への転換です。

実はちょうど同じころ、薩摩藩も同じような経験をしていました。1862年に武蔵国生麦村(現・横浜市鶴見区生麦)で、藩の最高実力者だった島津久光の行列に馬で乗り入れてきたイギリス人を殺傷し、翌年(1863年)にイギリスから報復を受けました(薩英戦争)。これで彼我の差を痛感した薩摩はイギリスと和解して提携関係に転じます。同国から軍事援助だけでなく造船、紡績などの技術を導入し、近代化を進めたのでした。

幕末の主な出来事

薩長同盟は必然の成り行き--「明治150年」を大きなステップに

このような経過をみると、薩摩と長州が同盟を結んだのも必然の成り行きだったことがわかります。先ごろ合意したTPP(環太平洋経済連携協定)をめぐっては、依然として農業など一部の分野で反対や懸念の声が根強くありますが、外国製品の輸入増加を阻止するというのは、いわば攘夷的な発想と言えます。そうではなく、外国製品に負けないようにするには農業などの競争力を高めることこそが重要であり、それは可能だということです。グローバル化への対応がいかに重要かは、幕末の歴史が教えてくれています。

山口県の村岡知事によると、山口と鹿児島、高知、佐賀の4県知事が集まって「平成の薩長土肥連合」を"結成"したそうです。遠隔地の地方自治体が歴史をテーマにした連携というユニークな試みで、広域観光ルートの形成や観光産業の発展などで協力する計画です。この4県は少子高齢化、人口減少という問題を抱えている点でも共通しており、村岡知事は「これを通じて地方の活性化につなげたい。明治150年の記念事業を国でも取り上げてもらうよう取り組んでいきたい」と意気込んでいました。

4人によるパネルトーク(左から、萩博物館主任学芸員・道迫真吾氏、大島商船高等専門学校准教授・田口由香氏、筆者、山口県知事・村岡嗣政氏)

「成長戦略」「地方創生」「グローバル化」などは、いずれも今日の日本経済の再生にとって重要なテーマですが、明治維新にはそのヒントが満載なのです。また当時の日本は欧米列強の侵略の危機にさらされるという最大のピンチを迎えていたわけですが、先人たちがそれを乗り切って明治維新を成功させ日本の近代化を成し遂げたことは、ピンチをチャンスに変えたとも言えるわけです。今日の日本もバブル崩壊後の長年の経済低迷で国際競争力が低下するというピンチに直面していましたが、それを乗り切って経済再生を果たすことができればチャンスに変えることができるのです。

その意味では、日本は今「第2の明治維新」を迎えようとしているとも言えます。明治150年が日本経済再生と地方創生の大きなステップになることを期待したいものです。

執筆者プロフィール : 岡田 晃(おかだ あきら)

1971年慶應義塾大学経済学部卒業、日本経済新聞入社。記者、編集委員を経て、1991年にテレビ東京に異動。経済部長、テレビ東京アメリカ社長、理事・解説委員長などを歴任。「ワールドビジネスサテライト(WBS)」など数多くの経済番組のコメンテーターやプロデューサーをつとめた。2006年テレビ東京を退職、大阪経済大学客員教授に就任。現在は同大学で教鞭をとりながら経済評論家として活動中。MXテレビ「東京マーケットワイド」に出演。