『ボウリング・フォー・コロンバイン』『華氏911』と米国社会に問題提起を続けているマイケル・ムーア監督の最新作『シッコ』(SiCKO)は、米国の医療保険制度に切り込んだ作品だ。"sicko"とは"病気"とか"感染者"って意味。知っている人も多いと思うけど、アメリカは先進国で唯一、国民皆保険のない国。健康保険は公共サービスではなく、おもに民間の保険会社が受け持っている。貧困層の人がそんなものに入れるわけもなく、国民の2割以上は無保険者と言われている。「こんな医療制度がビョーキだ!!」ってことで、マイケル・ムーアの130日以上に及ぶ突撃取材ツアーがスタートした。

一般人から医療にまつわる悲惨な体験談を自身のサイトで募集したところ、最初の1週間だけで2万5,000通ものメールが殺到したという

このドキュメンタリー映画の主題はそんな無保険者の話ではなく、ちゃんと普通に収入を得て保険に入っている人たちの話である。日本でも生命保険の未払いが大問題になっているけど、米国の保険会社は、とにかく考えつく限りの理由をつけて医療費を支払わない。

映画の冒頭、交通事故を起こして意識不明のまま救急車で運ばれたことのある女性が登場する。「事前に救急車を使うことを申告してなかったから、救急車の搬送費は保険でおりなかったの」……ネタじゃないよ。米国では、意識がなかろうが死にかけていようが、救急車を呼ぶ前にまず保険会社に電話しなくてはいけないそうだ。この後『スター・ウォーズ』のテーマに乗って、保険の適用外になる症状や条件が文字になって宇宙空間を飛んでいくが、途中から曲が早送りになるほど多い(笑)。だが、笑って見ていられるのはこの辺までだった。この後、シャレにならない事実がどんどん暴かれていく。

左の図は作業中に指を切断してしまった工場労働者に示された医者の言葉を表わしたもの。「治療費は薬指は12,000ドル、中指なら60,000ドルだ。どうする?」――この工員は安い方を選ぶだけで精一杯だった

ムーアの取材はさらに海外に及ぶ。まずはお隣のカナダ。国境をひとつ越えるだけで、医療費無料の世界が待っている。次に訪れたのはイギリスだ。ここでも、国民はいつでも無料であらゆる治療を受けることができる。病院のキャッシャー(支払所)探し求めるムーアは、裏口の脇にようやく窓口を見つけるが、それは治療費を支払う所ではなく、病院に来るまでにかかった交通費の払い戻しを受ける窓口だった。そしてフランス。ここでは、病気で入院したときの休業補償費まで受けとることができることを知る。ムーアは行く先々で問いかける。「ハウマッチ? -いくらかかった?」。みんな当たり前だろ? といった笑みを浮かべ、一様に答える「ゼロだ」。

この映画では触れていないが、もちろんこれらの国々の医療制度にも問題はある。カナダは医師不足が深刻で、病院では慢性的に長時間待たされるし、イギリスもフランスも医療財政は火の車だ。しかしそれでも、アメリカのような悲惨な目に遭う人はいない。ムーアの映画を「一方的で、自分の主張に不都合な部分をわざと取り上げていない」と貶す評論があるが、それは世の中の報道すべてにあてはまる。アメリカの多くの報道が、ムーアとは視点が逆なだけなのである。

そして最後はあの9.11にからめる形で取材が進む。9.11テロのとき、事件の起きたグラウンド・ゼロにはボランティアで多数の救護士が駆けつけた。彼らの多くは粉塵の中で救護活動を続けた結果、深刻な呼吸器障害を煩い、職を失い、政府の援助ももらえないまま暮らしている。一方、テロ事件を起こした犯人グループは、キューバにあるグアンタナモ基地に収監され、万全の医療体制に守られていた。ムーアは元救護士たちを連れ、キューバに乗り込む。基地に向かって拡声器で叫ぶムーア。「この人たちに、中の囚人と同じ医療を受けさせてください!」

キューバでの撮影が、事前の渡航許可を米政府から得ていなかったとして米財務省による調査が入った。その後、不法入国の容疑をかけて上映中止をチラつかせた

この映画で初めて知ったのだが、キューバはラテンアメリカで最も医療制度が進んだ国だそうで、もちろん全国民が無料で診療を受けることができる。キューバの病院は、グアンタナモで門前払いを食ったムーアたちを受け入れ、「9.11の英雄」として手厚く治療する。このあたり、キューバ政府の意図を感じないではないが、アメリカが見放した患者をキューバが診てくれたのは事実。保険会社から多額の寄付をもらい、「国民皆保険は社会主義の始まりだ」とアジって導入を阻む米国の政治家たちは、バリバリの社会主義国家かつアメリカの敵、キューバの態度を見て何と言うのか?

ムーアが医療ドキュメンタリに着手したと知るや、医療業界は「マイケル・ムーア対策マニュアル」(ムーアそっくりさん出演のDVD付き)を配ったり、「野球帽を被った薄汚い男に気をつけろ」というメールを流したりと戦々恐々だったとか

映画のパンフレットには「注)人ごとではありません」と書いてあるが、まったくその通りだ。日本の健康保険も問題だらけなのは皆さんご存じの通り。本人負担率は年々上がってるし、老人医療費の問題も深刻だ。しかも「負担に見合った医療を」という声のもと、健康保険の自由化が検討されているのをご存じだろうか。 推進しているのは政治家、実業家、エコノミストを中心としたメンバーで、米国の保険会社もその中に入っている! 今日のアメリカは、明日の日本かもしれないのだ。

『シッコ』は8月25日、シネマGAGA! ほか全国にてロードショー。

Sicko(C)2007 Dog Eat Dog Films, Inc.
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