10月から六本木で開催される「冨樫義博展-PUZZLE-」のグッズ「幽☆遊☆白書グラデーションメモ」を見て、昭和の同人女が懐かしさで死んだ。
まず「俺も死んだぞ」という昭和同人女以外の方に陳謝したいが、おそらく死者割合円グラフの半分以上を陣取っているのが我々ではないかと思われる。
今日も推しの顔が良すぎて死んだりと、オタクは吸血鬼よりすぐ死ぬ。
だが、オタクだったと思われる肉塊にアンケートをとると98%が「推しは健康に良い」と答え、2%は早口すぎて何を言っているかわからない、という調査が出ている。
では何故グラデメモ帳が古のオタクを爆散させたかというと、昔の同人グッズと言えば「グラデーション便箋(びんせん)」もしくは「ラミネートカード」(略称:ラミカ)だったからだ。
そう考えると、グッズラインナップにラミカを入れてこなかった冨樫展運営は手心がある。
もはや何を言っているかわからない若輩のために説明すると、グラデ便箋はキャラのイラストなどがグラデーション印刷された便箋、ラミカは名刺大キャラのイラストカードをラミネート加工したものだ。
便箋はまだしもラミカなんて何の意味があるんだ、と思うかもしれないが、現在の同人グッズ代表「アクリルスタンド」だって意味がわからない。
このように、時代や物は変わっても「グッズに意味を求めない」というオタクの精神だけは変わっていないのだ。そこに推しの絵が描かれていることが「意味」なのである。
何故、昔のグッズと言えばグラデ便箋とラミカだったかというと、おそらく一番手軽で安価で作れたからではないかと思う。
フルカラー便箋にしたいのはやまやまだが、フルカラー印刷は高い。かと言って単色印刷では味気ない、そこで導き出された答えがグラデだったのではないか。
初めて見たグラデ便箋が示唆した「地域格差」
しかし先ほどからさもグラデ識者のように振る舞っているが実は当方グラデ童貞なのである。
幽☆遊☆白書が連載されていたのが1990年から1994年である。その時私はまだ小学生であり、同人という存在すら知らず、何だったらBLというジャンルすら知らなかった。
私にそれらの存在を勘づかせたのは、本屋で普通に売られていた「るろうに剣心同人アンソロジー」である。
先日Twitterで「掃除してたら見つけた」と言って大量の同人アンソロジーの画像をアップしているアカウントを見つけたが、主なラインナップがNARUTOだったので、投稿者は私より若い年代と思われる。
このようにオタクは持っているジャンプ同人アンソロジーで相手の年齢を割り出す念能力を持っているのだが、最近はそんな能力者たちを「お母さんが持ってました(カクシテルツモリ)」で即死させる能力者が生まれているので油断がならない。
ちなみにこの能力は母親側も即死させるので発動時には注意が必要だ。
私が初めてグラデ便箋を見たのは中学生の頃、ネオジオフリークの募集コーナーに「KOFの怒チーム好きな人文通しましょう!」と投稿したら掲載されたのがきっかけだ。
ちなみに、私の住所と本名が直に雑誌に掲載された。これがほんの四半世紀前の話である。
すると、何人かが手紙を送ってきて、その中に同人グラデ便箋を使っている人がいたのだ。ちなみに交際を希望する男からも何通か手紙が来た、同人の歴史も長いが出会い厨の歴史も長い。
そのグラデ便箋を送ってきたのは私と同い年の子であった。ただ、その子は「関東住み」だったのである。
私が初めて「地域格差」を知ったのはこの時かもしれない。同じオタクでも片やグラデ便箋を使いこなし、片や存在すら知らなかったのだ。
私はそのグラデ便箋が死ぬほど羨ましかったが、もちろん入手する術も自分で作る金もなければ方法も知らなかった。
そこで編み出したのが、己で罫線を手書きして作ったイラスト付き便箋を、コンビニで色付きコピー用紙にコピーするという禁呪である。
私はその「俺が作った最強のコピー便箋」でしばらく何人かと文通していたのだ。そこまで思い出した瞬間、私は死んだ。
おそらくグラデ便箋を見て古のオタクが死ぬのは何かしらそういう「思い出」が蘇ってしまうからだろう、そして思い出が蘇ったと同時に本人は死ぬ。
つまり、私にとってグラデ便箋は身近なものというよりは憧れの対象であった。
結局その後もグラデ便箋を作ることなく、グラデ便箋自体が同人グッズの主流から消えてしまったのだが、やはり心残りがあったのだろう。
自分のクラウドファンディング企画のリターンとして「グラデメモ帳」を制作し、かつての自分を成仏させることとなった。
今アクリルスタンドを作りたくても作れない小中学生の方は、大人になってからでも作ってみると良い。やはり人生、やった後悔よりもやらなかった後悔の方が尾を引く。
ただし「やらかした後悔」も一生物だということも理解し、慎重に行動してほしい。