トヨタ自動車(TOYOTA GAZOO Racing:TGR)が「東京オートサロン2025」に年季の入った「80スープラ」を展示していた。なぜ令和7年最初のビッグイベントに80スープラを出展したのか。このクルマ自体はどういう経歴を持つ個体なのか。TGRブースで取材してきた。
80スープラってどんなクルマ?
TGRブースが掲げたテーマは「ニュルブルクリンクでのクルマづくり」。ニュルブルクリンクはドイツにある有名なサーキットであり、TGRのマスタードライバーであるモリゾウこと豊田章男トヨタ自動車会長にとってはクルマづくりの原点となった場所だ。
ブースには「ニュルブルクリンク24時間耐久レース」に参戦したTGR車両が多数展示されていたのだが、その中に1台だけ古い80スープラが展示されていて、異質の光を放っていた。どんなクルマなのだろうか。
展示されていたのはブルーの後期型A80スープラだ。A80型は1993年に米国でデビューしたスープラの4代目。日本では初代~2代目スープラを「セリカXX(ダブルエックス)」として販売していたので、80型はスープラとしては2代目とカウントする。
「トヨタ3000GT」のキャッチコピーを持つ3代目までのスープラが直線基調の外観だったのに対して、80スープラは曲面を多用したロングノーズ、ショートデッキの流麗なスタイルとなった。先代まで採用されていたリトラクタブルのヘッドライトがコンベンショナルな固定式になったのと、リアに装着した大型ウイングがエクステリアの特徴だった。
米国で人気だったダットサン(日産)280Zに対抗するため、初代スープラは直列6気筒エンジンを搭載していた。80スープラが搭載したのは、当時の規制値の上限となる最高出力280PS、最大トルク451Nmを発生する3.0リッター直列6気筒ツインターボの「2JZ-GTE型」だった。
なぜニュルブルクリンクだったのか
そんな80スープラの開発の場としてトヨタが選んだのがニュルブルクリンクだった。同社がニュルで自動車開発を行ったのは、これが最初となる。
なぜニュルなのか。「日本のサーキットでは10ある性能のうち1つしか見えないが、ニュルを走ると10すべてが見え、丸裸になってしまう」というのがトヨタの説明だ。そこで厳しい開発テストを繰り返すことで、圧倒的な高速性能を身につけたのが80スープラというわけである。
で、やっと本題に入るのだが、オートサロンの会場で話をしてくれたのはトヨタ凄腕技能養成部の平田さんだ。80スープラの評価ドライバーは彼の先輩マスタードライバーである故・成瀬弘さんで、さらには、当時社長だった章男氏が成瀬氏に“弟子入り”し、スポーツドライビングのイロハを学んだのがこのクルマそのものだったというのだ。
80スープラは2002年に生産終了となったのだが、章男氏は2007年にも中古の80スープラで訓練を行っていた。その際、訓練用として使えるクルマをトヨタ車の現行ラインアップから探したものの見つからず、欧州各社が最新車両でテストを行なう中、中古の80スープラで走るしかないという状況に悔しさを味わったというのは有名な話だ。それがのちの「もっといいクルマづくり」につながる原動力になっていったという。
平田さんは章男氏がドライブするマシンの助手席に座ったことがあるとのこと。モリゾウさんは訓練を繰り返しているそうで、今でもテクニックは年々上達しているらしい。レースに出場できるほどの能力を身につけただけでなく、長時間の高速走行に耐えられるだけの体力を現在も維持しているのには正直驚かされると平田さんは話していた。
ブルーのボディカラーをまとった実車を目の前にすると、フロント部の大小の傷や塗装はがれがよく目立つ。「山の中にあるニュルを高速走行すると、無数の虫やタイヤカスがフロントに当たるので、こうなってしまうのです」と平田さん。しかし筆者には、これを駆る時の豊田氏の悔しさがこんな形で現れているようにも見えて、なかなか興味深い。フロント235/45R17、リア255/40ZR17のコンチネンタルタイヤやシルバーのアルミホイールは、高速からのブレーキングで発生するダストによって適度に汚れたままで、リアルさが一層伝わってくる。
会場には成瀬氏と章男氏のニュルでの2ショット写真があちこちに飾られていて、トヨタのクルマづくりの原点がそこにあることをしっかりと伝えていた。