米政府機関向けに「ChatGPT Enterprise」を「1機関あたり年額1ドル」
先週、OpenAIはLLM(大規模言語モデル)の最新版「GPT-5」と、約6年ぶりとなるオープンウェイトモデル「gpt‑oss」を発表しました。「テックトピア:米国のテクノロジー業界の舞台裏」の過去回はこちらを参照。
OpenAIの応用研究責任者であるボリス・パワー氏は昨年、GPT-5を「オリジナルのGPT-3リリースに近い重要性を持つ」と表現していました。質的な飛躍と高い実用性を備えたGPT-5は、作業効率に大きな影響を与えるだけでなく、ChatGPTの次のフェーズを切り開く起点になります。
次世代のAI統合(マルチモーダル、長期記憶、エージェント化など)の基盤となる技術です。さらにgpt-ossの投入により、オープンAIの領域でも存在感を示し、生成AI市場全体への影響力を高める狙いがうかがえます。
こうした話題はすでに詳しく追っている方も多いと思いますが、実は先週にOpenAIはもう1つ重要な発表を行いました。「OpenAI for Government」の枠組みによる米共通役務庁(GSA)との契約合意です。
話題性や注目度ではGPT-5やgpt-ossに及びませんが、戦略的インパクトはそれらに匹敵します。パソコン史にたとえるなら、IBM PCの成功を想起させる出来事です。契約内容は、OpenAIが政府機関向けに「ChatGPT Enterprise」を「1機関あたり年額1ドル」で1年間提供するというものです。約200万人の連邦政府職員が対象となる、破格の取引です。
とはいえ、なぜ「1ドル」なのでしょうか。これは単なる大盤振る舞いではありません。裏側には、したたかなマーケティング戦略と、AIが社会インフラになる未来を見据えた布石が見えます。
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GPT-5の発表イベントで、GPT-5は人々の生産性をさらに向上させる「ポケットの中の専門家のような存在になる」と語るOpenAIのプラットフォーム担当責任者オリヴィエ・ゴドマン氏。AI技術が社会のインフラとして活用される将来に向けて、医療、教育、エネルギー、金融、そして行政サービス向けの取り組みを紹介
破格の価格設定を実施したOpenAIの狙い - BM PCの成功を想起
この破格の価格設定には、OpenAIの明確な狙いがあります。1年間でユーザーに「使いこなし依存」を作り出し、翌年以降は通常価格で契約更新を狙う--。典型的なBtoGフリーミアム戦略です。
1ドルという価格設定は、事実上「無料提供」に等しい象徴的なものです。OpenAIも「名目的な費用」としています。無料にすると「贈与(寄付)」扱いとなり、別途の法的手続きや議会承認が必要になる可能性がありますが、1ドルでも料金を設定すれば通常の有償契約として、契約上の対価として扱われます。
このような、特別な価格設定によって新しいテクノロジーの導入を促す戦略は、過去にいくつも前例があります。代表的な例の1つが、パソコンの黎明期におけるIBM PCです。
1981年にIBMが政府向けにPCを大幅値引きして提供しました。当時のIBM PCは、現在の価格で5000ドル以上と、個人向けには高価だったものの、従来の企業向けコンピュータが数万ドルから数百万ドルもしたことを考えると安価でした。それでも、まだ誕生したばかりのパソコンの導入に対し、政府機関やビジネスからは少なからず懐疑の目が向けられていました。
IBMはGSAスケジュールに食い込むことを優先に「大幅値引き」を断行。各機関ごとの複雑な入札や個別交渉を避け、あらかじめ政府とIBMで定めた条件(価格やサービスを含む)で、カタログから選ぶようにPCを購入できる状況を早期に実現させたのです。
これにより、PC導入は政府機関全体で一気に進み、政府の“お墨付き”を得たIBM PCはビジネス用途で絶対的な信頼を獲得。多くのソフトウェア会社がIBM PC向けソフトを開発し、ハードウェアメーカーは「IBM互換機」を製造しました。結果として、IBM PCは業界のデファクトスタンダードへと押し上げられました。「使い始めたら、やめづらい」--。この空気をいかに醸成するかが勝負どころでした。
1ドル提供は顧客を獲得するための広告・マーケティング費用を大きく圧縮
実質無償でChatGPT Enterpriseを使用できるというのは、政府機関にとって大きな魅力です。通常、新しいシステムを導入するには、効果を検証するためのPoC(概念実証)に莫大な予算と時間がかかります。
生成AIは期待値が高い一方で、実用性や想定されるリスクの評価はまだ途上です。しかし今回の契約により、予算折衝や新規の資金確保に奔走することなく、この技術を「試す」ことができます。わずか1ドルで、全省庁横断の大規模PoCが回り始めます。
OpenAIは導入する機関の職員に対して包括的なトレーニング支援を提供します。また、SlalomやBoston Consulting Group(BCG)とも連携して、安全かつ責任あるAI展開のための支援や研修を各機関向けに実施します。単にツールを提供するだけでなく、現場で“ちゃんと使える”ところまで伴走する体制です。
1年後に再交渉になりますが、初年度にAIツールを使う効果を浸透させられれば、OpenAIは非常に強力な交渉ポジションに立つことになります。政府はすでにこのツールに依存しており、交渉の論点は「AIを使うべきか?」から「AIを使い続けるためにいくら支払うか?」へと変化しているでしょう。
加えて、OpenAIは「米国政府が採用したAI」という大きな無形資産を獲得できます。「政府公認」の心理的効果は非常に強力なものです。結果的に、1ドル提供は顧客を獲得するための広告・マーケティング費用を大きく圧縮する効果を持ちます。
「1ドル提供」はコストではなく広告費。政府採用という事実そのものが、広範な市場への強力な宣伝効果として機能します。
もっとも、IBM PCのケースと現代のSaaS(Software as a Service)モデルであるChatGPTのケースでは異なる点もあります。
今回「使いこなし依存」の対象は、一企業が提供するクローズドなサービスであり、より直接的なベンダーロックインを招く可能性があります。オープンウェイトモデルであるgpt-ossの提供には、そうした懸念を和らげる狙いもあるのでしょうが、ライバルもOpenAIの独走を許さないでしょう。
「1ドルChatGPT」は、AIを電気や水道のような社会インフラへと根付かせようとする、新たなプラットフォーム競争の号砲です。公共セクター導入を「AI普及の近道」とみなすAI企業の競争は、実用性を高めるAI技術開発を加速させることになるでしょう。その結果として、民間企業や個人ユーザーにも多様な恩恵がもたらされると予想されます。