与論島はカタカナで「ヨロン島」と書かれることも多い。実際、町名は漢字で与論町だが、観光協会ではカタカナ表記を採用してヨロン島観光協会という名称にしている。漢字とカタカナの使い分けにはとくに基準はないが、一説によれば、カタカナにすると海外の南の島というイメージを喚起できる……という思惑もあったようだ。


与論島は「ユンヌ」とも呼ばれる。呼ばれるというよりも、これこそがもともとの与論の名である。ユンヌが転じてヨロンになったわけで、漢字表記の与論も言うまでもなく後付けだろう。

このユンヌの島が"日本の端"であったのは、これまでにも書いたように1972年の沖縄返還以前のこと。与論島を含む奄美諸島も戦後、沖縄と同様に米軍政下に置かれていたが、奄美諸島は沖縄より20年弱早く1953年12月25日に日本へ復帰した。その日付から、アメリカは日本へのクリスマスプレゼントだと表明したそうだ。

与論の自慢は、やはりなんといっても美しい海。水は透明度が高く、白いビーチは泳ぎに格好の場として、またサンゴ礁はダイバーに人気が高い。写真は大金久海岸北部のクリスタルビーチ。青にはいったい何色あるんだろうと思わせてくれる

海上交流集会と沖縄返還前の与論

与論と沖縄本島最北端・辺戸岬でそれぞれ松明を灯し合い、双方の人々が沖縄の日本復帰を願ったというエピソードは有名だ。これ以外に、与論と沖縄の間を通る"国境"北緯27度線を挟み、双方からそれぞれ船で集まった人たちが、海上で握手をするなどの交流集会を開いたこともあった。沖縄返還まで数年にわたり何度か行われたイベントだが、現在77歳の橋口治元さんは40代になりたての当時、この集会に参加していた。

橋口さんは沖縄返還以前から、鹿児島 - 与論に就航していた貨客船「高千穂丸」で働いていた。貨物の積み下ろしを行う、昔風にいえば仲仕(なかし)の責任者を務めていた。かつての与論にはフォークリフトなどの重機がなく、荷揚げはすべて手作業。それはそれは大変な重労働だったそうだ。

大型船を接岸できなかったときは、乗客もすべて艀(はしけ)で運んだ。艀というのは、大型の船舶から貨物や人を運ぶ際に使う小型船のこと。大型船舶が着岸できる港がない場合などに用いられる。日本の端ということで多くの観光客が訪れた当時、与論で下船する人が1,000人を超えたこともあったが、夜の海を艀で何度も何度も往復しながら運んだという。「ただの一度も事故を起こさなかったことがいちばんの誇りですね」と橋口さんは語る。

沖縄返還前の与論の暮らしについて、橋口さんは「すぐ近くに見える沖縄にも行けず、生活は苦しかったですよ」とつぶやいた。アメリカ軍政下でも、また本土復帰後も財政投下が多かった沖縄に比べ、与論を含む奄美諸島は常に"脇役"、半ば放置された状態に置かれていた。橋口さんの回顧はその歴史を如実に表している。

27度線の海のあちら、沖縄本島の巨大な島影に向かってなだらかに下る島南部の坂道。与論にはいたるところにサトウキビ畑が広がっている。橋口さんのお宅も島の南側、この付近にある

与論の港に大型の貨客船が入ってくる。大型船が接岸できる港がなかった時代、深夜のリーフの上を、艀で何往復もしたという。貨物もすべて手作業で揚げ下ろししていた

沖縄返還前に繰り広げられた海上交流集会を振り返り、「漁船や艀から海に飛び込む人もあるし、それはもう恐ろしいくらいの賑わいだったですよ」と思い出を語ってくれた橋口さん。与論側には本土からやってきた人々も参加したというが、橋口さんの記憶ではやはり「沖縄側の人たちの熱気がすごかった」という。与論(奄美)と沖縄を並べると、どうしても沖縄のほうがあらゆるシーンで"主役"になってしまう。その構図がここでも見えてくる。

また沖縄返還前は、商売で"密航"した人もやはりいたという。与論から豚や牛を積み、物々交換で沖縄から米軍物資の缶詰などを持ち帰る。"国境"があろうがなかろうが、与論と沖縄はそれほどに近いのだという事実の証でもあろう。橋口さんも一度だけ、"異国"沖縄に近づいたことがある。沖縄に渡りたい客に頼まれ、今帰仁(なきじん)近くの海まで船に乗せていったそうだ。しかし「米軍に捕まるのが怖くて怖くて、二度とそんなことはしないと誓いました」と、数十年を経た今となっては笑顔で話してくれた。

長女が北海道に住む橋口さん。まだ北海道に行ったことはないとのことだが、「歩けるうちに、日本の北の端も見てみたい」と元気に語る。

"日本の端"ではなくなった与論の人々

同じ与論の人であっても、"日本の端"への思いはやはり世代によって異なる。僕が与論でいつもお世話になる民宿「楽園荘」の若旦那・本園秀幸さん(ヒデさんと呼んでいる)は、沖縄返還の翌年に生まれたから、現在30代半ば。返還をリアルタイムで経験した世代ではないので、当然ながら与論が日本の端であるという意識はまったくないという。しかし「鹿児島県といわれるより、沖縄県といわれるほうが気持ちとしては近い」とは言う。

島の東部・古里(ふるさと)地区にある楽園荘。繁華街の茶花からは島の反対側にあたり、徒歩だと丘を越えて45分前後かかるが、周りにはサトウキビ畑が広がり、静かでのんびりとした雰囲気が最高。修学旅行生も多く泊まる

与論島は沖縄県になったほうがいいかと尋ねると「個人的には、なったほうがいいですね。やっぱり、近いからですね」と、ヒデさんは何のためらいもなく答えた。

「自分が東京や大阪へ行ったとき『どこ出身?』と聞かれるじゃないですか。与論島だと答えると、それは何県かって聞かれるんですよ。『いちおう鹿児島県なんだけど』と答えると、『じゃあ鹿児島の人なんだね』と言われるわけです。そのとき、なんかカチンとくるんですよ。おい、ちがうぞ、と。鹿児島が嫌いなわけじゃないんだけど、桜島とか、カルカンとか、いわゆる鹿児島のイメージと、与論島とでは、あまりにちがいすぎるじゃないですか」。

実際、具体的な動きにはならなかったが、沖縄北部のやんばる地方と一緒になってしまったほうがいいという話は、島の人々の間で何度か持ち上がったそうだ。「観光の面でも、沖縄県になったほうがいいと思っている人は多いんじゃないですか。まあ、それでもあえて"沖縄ではない"というのも、与論のいいところなんですけどね」。

沖縄返還後に生まれた世代として、かつてここが日本の端だったということを想像すると、どういう思いがあるのだろう。

「自分のじいさんが(返還前の)沖縄へ行っていたのが、カッコよく見えますね。それは外国に行くのと同じことで、僕らが沖縄に行くのとは意味合いがちがうから。そういう時代を体験してみたかったというのはありますよ。でも、かつて日本の端っこだったことは、話として聞くだけで、今はもちろんそういう感覚はないですね」。

海越しに沖縄を望む道路を爽快に飛ばしながら、ヒデさんはそう言った。

与論をこよなく愛した作家・森瑤子(1940-1993)の墓。楽園荘に近い海沿いの高台に建てた別荘で、いくつもの作品を執筆した。墓は遺言により、別荘の脇にひっそりと佇んでいる。彼女は楽園荘にもよく訪れていたとのことだ

森瑤子さんの墓の前から、東の海を望む。東海岸は与論の中でもリーフがいちばん広いところ。その向こうに、奄美諸島で与論の北隣にあたる沖永良部島がうっすらと見えている。与論と沖永良部は、奄美諸島の中でもとりわけ沖縄(琉球)の影響が色濃く残る

那覇の飲み屋で与論の話をすると、意外にもウチナーンチュ(沖縄人)の多くは「与論って(沖縄本島の)そんな近くにあるんだねー」と驚く。ヤマト(日本本土)からの旅人の多くも、沖縄から300~400km離れた宮古や八重山はあくまで沖縄(沖縄県)として興味を持つが、わずか20km強の与論は「沖縄県じゃないから」という理由であまり意識しないらしい。ヒデさんの「鹿児島県より沖縄県といわれるほうが気持ちとしては近い」という思い、いわば与論から沖縄へのラブコールは、沖縄側からだとなかなか理解されないのだろうか。与論島の微妙な歴史的・地理的位置に、ついぞ歯噛みをしたくなった。

与論島最大の観光名所といえば百合ヶ浜。干潮のときのみ、海の中から砂浜が浮かび上がる。大潮の日などサッカーができるほど広い浜が出ることもあれば、数人がようやく立てる程度しか出てこないこともある。浜には大金久海岸や皆田海岸からグラスボートで行く

「かもめ食堂」とほぼ同じキャスト・スタッフ陣で話題を呼んだ小林聡美さん主演の映画「めがね」は、ここ与論島で撮影された。写真の海岸はメインのロケ地となった寺崎海岸

与論島には牛が多い。八重山の島々のように広々とした草地で放牧される光景こそ見られないが、いたるところに牛舎があり、ゆったりとした牛の声がサトウキビ畑を渡って聞こえてくる

次回は、日本最南端の島・波照間島前編をお届けします。