生きた心臓を京に再現

東京大学の杉浦清了 特任教授は、心臓モデルを京コンピュータ上に作るという研究について発表を行った。

京コンピュータ上に生きた心臓を再現する研究について発表する東大の杉浦教授

病気の本当の原因は、細胞の中の分子レベルの異常というものが多いが、このような分子レベルの活動は顕微鏡などでは観測できない。このため、可能な限り本物に近い臓器モデルをコンピュータ上に作ってシミュレーションを行うことが必要であるという。

分子から生体まで9桁のサイズの違いがあり、分子レベルの生化学反応、筋肉の動きのような力学的現象、イオンを介した信号の伝達などの電気的現象をモデル化する必要があり、マルチスケール、マルチフィジックスのシミュレータとなる (出典:京コンピュータシンポジウムにおける杉浦教授の発表スライド)

人体はメートルサイズであるのに対して、分子の生化学反応はナノメートルサイズで、9桁のサイズの違いがある。人体全体をナノメートルの分子レベルでモデル化すると膨大なモデルとなり、とても扱いきれない。このため、臓器、組織、細胞、分子レベルでモデルを作り、それらを連携させるマルチスケールのモデルが必要となる。

また、モデル化する反応は分子レベルの生化学反応、心筋の収縮のような物理現象、イオンの伝達や心筋を動かす電気信号などの電気的現象といった種類の異なる反応を含むマルチフィジックスのモデルが必要となる。

東大はUT-Heartというプロジェクトで2001年ころから心臓モデルの開発を行ってきているが、これまでは、コンピュータの能力の制約から細胞内の構造をモデル化することができていなかった。京コンピュータを使い、細胞内構造をモデル化し、コンピュータ上の(In Silico)心臓をより実物に近づける。

分子、細胞、組織、臓器のレベルでモデルを作る。従来の通常のモデルでは、細胞内の構造は細かくモデル化されていなかったが、京コンピュータでは細胞内の構造をモデル化して心筋を作る (出典:京コンピュータシンポジウムにおける杉浦教授の発表スライド)

そして実物の心臓をCTスキャンで取り込み、有限要素法で心臓の3次元モデルを作る。そして、心筋のシート構造やファイバの向きなどの情報や伝導系を加えて心臓のモデルとする。

CTスキャンの画像から心臓の3次元モデルを作る (出典:京コンピュータシンポジウムにおける杉浦教授の発表スライド)

心臓のそれぞれの部分の繊維の向きやシート構造の違いの情報を入れ、血管などの伝導系を付け加えて心臓モデルを作る (出典:京コンピュータシンポジウムにおける杉浦教授の発表スライド)

そして、心臓を取り囲む胴体のモデルを付け加える。そうすると、モデル全体の格子数は約5000万、自由度(Degree of Freedom)は約420万という膨大なモデルとなる。

胴体を含めたモデル全体では格子数が約5000万、自由度420万という規模になる (出典:京コンピュータシンポジウムにおける杉浦教授の発表スライド)

このモデルは自律的に各部の心筋が動いて血液を送り出し、胴体のモデルの表面で観測できる心電図の波形も本物の心臓とよく一致しているという。

従来のモデルでは、数10から100程度の細胞を1つのグループとして、その平均的な挙動をモデル化していたが、このグループ内の微細構造の変化が病気の原因となっていることが明らかになってきており、細胞内の微細構造を正しくモデル化することが必要とされてきているという。

数10~100細胞をグループとしてまとめて平均値で表すのではなく、グループ内の構造を正確にモデル化することが要求されるようになってきた (出典:京コンピュータシンポジウムにおける杉浦教授の発表スライド)

しかし、計算量は細胞の数に比例するので、微細構造を取り入れると、300CPUの研究室のコンピュータでは700日と約2年、計算に掛かってしまうことになり、事実上、計算できない。しかし、京コンピュータを使えば、この計算を1日以内で行うことが可能になり、細胞内の微細構造をモデル化しても現実的な時間でシミュレーションができると見込まれる。

患者の半数が40歳までに突然死する肥大型心筋症という病気がある。心筋が肥大しており、その細胞を見ると、右の正常な心筋では細胞が一方向にきれいに並んでいるが、肥大型心筋症の細胞は方向がまちまちで錯綜している。

患者の半数が40歳までに突然死する肥大型心筋症。心筋が肥大しており、詳細に見ると、心筋細胞の配列が錯綜しているのが見える (出典:京コンピュータシンポジウムにおける杉浦教授の発表スライド)

京コンピュータを使い、分子レベルから細胞構造、臓器レベルのモデルをシームレスにつなぎ、錯綜配列の原因と想定されるミオシンの異常を組み込んでシミュレーションすると、この病気で見られる、心臓の収縮後の弛緩の速度が遅くなるという現象を再現することができたという。

このように心臓モデルはテーラーメード医療にも応用できるし、ペースメーカーなどの機器開発、あるいは創薬の過程で、不整脈を引き起こすような副作用を評価する目的に使うこともできる。京コンピュータを使うことでより高度なシミュレーションが可能となり、基礎医学や生物学と臨床医学を結びつけ、研究を加速する効果が期待されるという。