おかしな風が吹いている~実際に変わりはじめたメディアとコンテンツの関係

「これまでのメディアにデジタルが加わるのではない。メディアがデジタル化していくのだ。」で、今年は“節目の年“になるようだと書いた。今日はその続きを書こう。

朝日新聞の社長が驚くほどちゃんとメディアの将来を見据えたことを言った。紙の媒体で書くことにこだわっていてはいけない、と。もはや、新聞記事とは紙でもデジタルデバイスでも読めるものだし、それは加速する。いまの若い世代が年齢を経ても紙の新聞を読むようにはならないだろう。

この考え方を図にすると、こんなことだろう。

左側が、これまでのメディアとコンテンツの関係。新聞で言えば、メディア=紙の新聞。コンテンツが記事。記事は必ず紙の新聞とセットであり一体化している。コンテンツは紙の新聞に掲載される前提で生み出される。そこに何の疑問もない。

ところが右側では状況が違う。ひとつのコンテンツ=記事、に対してメディアが複数ある。新聞の現状に当てはめると、ひとつの記事が、紙の新聞にも、PC上の新聞にも、タブレット上の新聞にも掲載されている。そうなると、記事を書くことは紙でアウトプットされるとは限らなくなる。

いやだ!おれは紙の新聞に載る記事を書くためにこれまでやってきたのだ!・・・そんなこと言ってると仕事なくなるよ。朝日新聞の社長はそう言ったわけだ。

そしてここには大きな問題がある。コンテンツがひとつのメディアに載ることが普通だった左の時代は、わかりやすかった。メディアが素直に稼げた。広告が集まったしそれなりの値付けができた。購読料もとれた。

右の時代になるとそこが不安定になった。もともとの紙媒体の価値は下がっていっている。購読料は減少するし、広告媒体としての価値も下がってしまった。一方、デジタルデバイスでは購読料がなかなかとれないし、広告価値もまだまだ低い。このままだと、本来の価値は下がるし新たに増えたデバイス上での価値はそれを補えない。だから、事業としては縮小せざるをえない。

新聞だけでなく、雑誌でも、ほとんど同様のことが言える。テレビメディアでも同じことだ。

ただ、テレビメディアでは米国と日本とでは、少し違う状況にもなっている。

日本のテレビメディアは、メディアとコンテンツと分けた時、メディアの経済価値に重心を置いてきた。コンテンツの価値は曖昧だった。

米国の場合は、メディアとコンテンツが多くの場合、分離して成立してきた。だから、コンテンツそのものの経済価値を重視してきた。二次使用も含めたマネタイズをあらかじめ折り込んでいる。ドラマを中心に、テレビ局の所属ではない制作会社のプロデューサーが中心になってつくってきた。そういう構造だと、右側にシフトしやすい。メディアが増えればマネタイズの手法が増えるとも言える。

日本のように、制作者もメディア企業の所属だと右側に移行した際に身動きがとりづらくなるのだ。

さらに、ことはもっと複雑だ。この図を見て欲しい。

さっきの図の、右側の時代が進むと、さらにこうなる。これまでの、メディアと一対一対応の時代だと、コンテンツはひとつの枠組みの中におさまっていた。テレビでいうと、放送時のパッケージ(30分番組とか1時間番組とか)に添った完成形だった。

でも、それが進むと、コンテンツは形が曖昧になったり、同じコンテンツだけど形がちがうものが複数出てきたりする。それでも、それ全体がひとつのコンテンツなのだ。

テレビ番組で言うと、番組そのものだけでなく、番組のロゴや出演者の写真、WEBサイトで読む情報、宣伝ポスター、最近ではアプリなんてのもある。それも、これも、同じコンテンツ。形違い。

さてこうなると、これまでの番組のスタッフだけでは大変になる。何しろ、番組を毎週制作するのはものすごく大変な作業だ。そのコンテンツの捉え型を広げてあれもこれも考えて企画して完成させる、なんて無理だよ。

そうすると、直接的なディレクターやプロデューサーとは別に、上位概念的なプロデューサーというかディレクター(?)が必要になるのだ。うん、絶対そうなるはずだなあ。でもまだまだ時間がかかるんだろうなあ。

そんなことを考えて、それをブログに書こうかな、などと思いつつ夜になり、会食の席に向かった。某テレビ局のみなさんと、飲み会やろっか、という気さくな集まり。ソーシャルテレビの勉強会で何度もご一緒し、時に熱く語りあってきた仲間だ。

今年何をやるか、などと話しているうちに、中のひとりが言い出した。自分はコミュニケーションデザインをやるつもりだ、と。後輩が担当する番組の、コミュニケーション全体を設計する。自分はその番組の中身には直接関わらない。その周りのコミュニケーションを組み立てる。それはある意味番組の宣伝でもあるが、それだけでなく番組から生まれる様々なコンテンツを、ソーシャルメディアもうまく生かしつつふさわしいメディアに置いていく。そんなことをやろうと思う。

ん?!・・・それはようするに、ぼくがさっきもやもやと考えていたことではないかい?

ぼくはたいそうびっくりした。

別の方が言うには、”おかしな風が吹いている”のだそうだ。コミュニケーションデザインと言い出したテレビマン氏は前々から、それまでの枠組みから外れたことを言い出していた。全然理解されなかった。それでも言いつづけていた。

そうしたら、このごろになって、”じゃあ、やってみてくれよ”と言われるようになった。どうしてみんなの反応が変わったのか、明確な理由はわからない。ただ、“おかしな風が吹いている“ようだ。そうとしか言えない。

おかしな風が吹いているのだ。

どうやらいま、そういうタイミングなのだ。

だって大新聞の社長が、紙の新聞で何十年もやって来た会社のトップが、これからは紙だけじゃダメだ、と言ったのだ。これまでの常識からすると、おかしなことかもしれない。

つまり、そういう風が吹いているのだ。

おかしな風が吹いているのなら、それにのっていこうじゃないか。どうやら、今年はそういう年なのだ。なにしろ“節目の年”なのだから。

もやもや考えていた、同じことを、たまたま飲み会で別の人も考えていた。そちらは、具体的にやろうという状況になっている。うん、おかしな風が吹いている。ぼくもその風にのることにしよう。

もやもや考えたことを、今年は具体化する年なのだ。もちろん、マネタイズも果たさねばならない。実際に成果も出さねばならない。でもそれもなんとか、なるだろうよ。だって風が吹いてるからね。

<ライター紹介> 境 治(Osamu Sakai)


メディア・ストラテジスト。1987年、東京大学を卒業し、広告代理店I&S(現ISBBDO)に入社してコピーライターとなる。92年、TCC(東京コピーライターズクラブ)新人賞を受賞。93年からフリーランスとなりテレビCMからポスターまで幅広く広告制作に携わる。06年、映像制作会社ロボットに経営企画室長として入社。11年7月からは株式会社ビデオプロモーションでコミュニケーションデザイン室長としてメディア開発に取り組む。

著書『テレビは生き残れるのか』
ブログ『クリエイティブビジネス論

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