科学技術振興機構(JST)と東京都医学総合研究所は1月25日、空腹状態になると記憶力があがること、さらにその分子メカニズムをショウジョウバエを用いた研究によって明らかにしたと発表した。
同成果は、東京都医学総合研究所の平野恭敬 主任研究員、同 齊藤実 参事研究員ならびに首都大学東京の研究チームらによるもので、JST 課題達成型基礎研究の一環として実施され、詳細は2013年1月25日(米国東部時間)発行の米国科学誌「Science」に掲載される。
さまざまな記憶障害を改善することは、QOL(Quality of Life:生活の質)を高めるうえで重要となる。近年の記憶に関する研究により、どのようにして記憶が行われるのかといったメカニズムが進められてきた。しかし、まだまだ記憶障害を効果的に改善する方法は確立されていないのが実情だ。そこで、研究グループは今回、ショウジョウバエをモデル生物として用いて、そうした課題の解決に挑んだ。
動物は、経験した事柄を記憶情報として保存するが、その記憶を長期保存するためには、脳の神経細胞においてタンパク質「CREB」が新たな遺伝子を読み出す必要がある。このような長期記憶のメカニズムは、ショウジョウバエから哺乳類まで共通していることがこれまでの研究により判明している。研究グループは、過去行ってきたショウジョウバエによる長期記憶研究で生じた謎である、「ハエに1つの匂いと電気ショックを同時に与えると、その匂いを電気ショックと関連付けて学習し、嫌いになるが(嫌悪学習)、嫌悪の記憶が長期記憶として保存されるためには、1回だけの学習では不十分で、15分間隔で何度も復習させることが必要。しかし、ハエに1つの匂いと砂糖水を同時に与えると、ハエはその匂いが好きになる(報酬記憶)」という点に着目した。嫌悪学習は反復する必要があるものの、報酬記憶は1回の学習で長期記憶になることが知られており、その違いについて調べていったところ、報酬学習の前は、効率的に砂糖水を飲ませるために、ハエを空腹状態にしていたことが判明し、この空腹状態こそが1回だけの学習でも長期記憶が作らせる要因なのではないかと考察されたという。
そこで、空腹状態が長期記憶を作るために重要になるのであれば、空腹状態にしたハエに嫌悪学習をさせることで、1回の学習でも長期記憶ができるはずだと考えた研究グループは、ハエを9時間から16時間絶食させたのちに1回だけ嫌悪学習させ、1日後に記憶を確かめてみるという実験を実施。その結果、確かに長期記憶として保存されていることが確認されたほか、空腹時であっても、CREBタンパク質を阻害すると長期記憶は作られないことを発見した。
従来の研究かた、CREBが機能するためには、CREBを活性化させるCBPとCRTCいう2つタンパク質が重要であることが知られており、さらなる研究としてCBPとCRTCの機能を阻害する実験を実施したところ、満腹時の複数回の学習による長期記憶にはCBPが重要である一方、空腹時の1回の学習で作られる長期記憶にはCRTCが重要であることが判明した。
さらに、これまでの研究から代謝組織において、CRTCは活性化すると細胞核に移行することが知られていたが、今回の記憶中枢の神経細胞においても、空腹により細胞核への移行が確認され、その結果、記憶中枢神経のCRTCが活性化されることが分かったという。
空腹時には血液中の糖濃度(血糖値)が低下し、その結果、インスリンの分泌が低下することとなる。これまでの代謝組織における研究で、CRTCはこのインスリン低下により活性化することが知られている。そこで、さらなる研究として空腹時のインスリン低下が長期記憶を作らせるのかの検討のために、遺伝的にインスリン活性が低下している変異体の解析を実施したところ、このハエは、空腹にしなくてもCRTCが活性化しており、満腹状態でも1回の学習で長期記憶が作られることが判明した。
これらの成果から、1回の学習で長期記憶が作られる機序として、空腹状態のインスリン低下によりCRTCが核内移行し、CREBを活性化するという分子メカニズム(脳内の神経細胞でCRTCを活性化させれば記憶力があがる)が明らかになった次第だ。
これまでの長期記憶を作るための研究では、嫌悪学習では複数回の学習を必要とするが、報酬学習では1回のみの学習で十分である理由として、報酬学習前の絶食の影響を考慮されてこなかった。そのため、今回の成果は、研究者の常識を覆す発見といえると研究グループでは説明する。
また、古くから一般的に「勉強は食前に行うと良い」などと空腹状態と記憶との関連についていわれてきたが、今回の研究から、それに対する科学的な実証がなされたこととなった。研究グループでは今後、メカニズムの詳細を明らかにするとともに、マウスなどの高等生物での解析を進め、最終的にはヒトで同様の仕組みが働いているかなどを確かめる必要があるが、今回の成果が、古くからのいわれに対して生物学的な検証を始める糸口になる可能性が出てきたとコメントしている。
なお、複数回の学習後の長期記憶においては、CBPの機能の1つである「ヒストンアセチル化活性」による、関連遺伝子のエピジェネティックな制御(DNAの塩基配列ではなく、配列上の「目印」を付け替えることによる遺伝子発現の制御)も、記憶形成に重要であることが知られているが、今回の発見である空腹時の1回の学習後の長期記憶ではCBPの関係は見られなかったという。そのため、空腹時の長期記憶では、CBPとは異なる別のエピジェネティック制御因子によって記憶が蓄えられている可能性が示唆されており、研究グループでは現在、空腹時の長期記憶ではどのようなエピジェネティクスが関与しているのかに関する解析を進めているという。
今回の成果から将来的には、CRTCの活性を制御する薬剤が開発され、それにより記憶力の改善が実現する可能性があるが、これまでCRTCは、肥満治療におけるターゲットとして考えられてきたタンパク質でもあるため、適切にCRTCの制御を実施しなければ、記憶力があがる一方で、エネルギー代謝異常を引き起こす可能性があると研究グループでは指摘しており、そうした問題の解決のためにも、今後、脳内の神経細胞でのCRTCと、肝臓などの代謝組織のCRTCがどのように制御されるのかを詳細に解析し、脳だけでCRTCを操作する方法を模索する必要があるとしている。また、ショウジョウバエでは、適度な空腹状態ではどんな記憶でも長期記憶になるが、過度の空腹により飢餓状態に陥ると、食べ物の報酬記憶だけが長期記憶になり、他の記憶は長期記憶にならないことも発見しており、空腹で記憶力をあげる時には注意が必要だともコメントしている。