名古屋大学(名大)と東京大学は、古典芸能で使う「能面」が多様な表情を見る側に想起させるのは、能面の各顔パーツが異なる情動を表現している「情動キメラ」であることが原因であり、こうした「情動キメラ」からの表情判断は、主に口の形状に基づいてなされることを示したと発表した。

成果は、名大大学院 情報科学研究科の川合伸幸准教授、東大大学院 総合文化研究科の岡ノ谷一夫教授らの共同研究グループによるもの。研究の詳細な内容は、米国東部時間11月21日付けで米オンライン科学誌「PLoS ONE」に掲載された。

情動研究において、表情認知は重要な分野であり、そのメカニズムの解明は多くの研究者によって行われてきた。日本の伝統芸能である「能」で用いられる「面(おもて)」は、古くから「能面のような」という言葉で知られるように「無表情」の代名詞とされている。

しかし、実際に上演される能の舞台では、木彫りの面であり形状が変化しないはずの能面がさまざまな表情をしているように見えるのは、見たことがある人ならわかることだろう。表情がないはずの能面から表情を読み取るのはどのようなメカニズムなのか、能面を使った表情認知メカニズムの研究は、表情認知の根源を探るのに適しているという。

能の世界においては、能面を上下方向に傾かせることで表情を変化させている。「喜び」を表現する時には能面をわずかに上に傾かせ(「照らす」と呼ばれる所作)、「悲しみ」を表現する時には能面を下に傾かせる(「曇らす」と呼ばれる所作)。

ところが、これまでに上下方向に傾きを変化させて能面の印象を評価させた研究で、上向きの能面は「悲しみ」と判断される割合が高く、下向きの能面も逆の「喜び」と判断される割合が高いことが判明していた。研究グループが、能に親しんでいない大学生に能面の表情を評定させたところ、情動を逆に判断してしまう結果となったのである。

この結果は、能における能面の傾きとその能面が表現する表情との定義に反するものであり、研究グループでは、上下方向に傾きを変えた能面は、何の表情を示しているのかを調べるため、今回の研究において、上方向・下方向に傾けられた能面の表情と、喜び・悲しみの表情に共通点があるか否かを検討した。

具体的には、日本人大学生を対象にして、能動的な表情作成と受動的な表情判断という両方の実験場面で、能面師倉林朗氏が作成した能面「小面」の情動認知を検討。「小面」は、女面の1つで、若く清純な美しさを表現した面である。

1つ目の実験として、能面の表情作成が行われた。14名の参加者が、東大原島研究室が作成した表情作成ソフトウェア「FaceTool」を用いて、喜び、悲しみ能面の表情を作成、および上向き、下向き能面の表情を模倣。画像1はその作成画像例で、(a)が初期画像で、実験ではこの画像がさまざまな表情に変化させられた。(d)(e)は、参加者が任意で作成した「喜び」と「悲しみ」の表情で、(f)(g)は上向き能面の画像(b)、下向き能面の画像(c)をそれぞれ、模倣したものである。

模倣の結果、上向き能面では、眉および口の特徴は悲しみ表情と共通しており、目の特徴は喜び表情と共通していた。下向き能面では、これらが全体に逆転傾向にあることが判明したのである。すなわち、上下方向に傾けられた能面は、眉・目・口がそれぞれ異なる表情を表出しており、キメラ的な複合表情を持つことが示唆された(画像2)。

画像1。作成画像例

画像2。上向き、下向き能面の各顔領域が表現する情動

実験2では、能面の表情判断実施。63名の参加者が、上向きおよび下向き能面の眉・目・口をそれぞれ合成した8種類の能面顔(画像3)を、喜び、悲しみの2者択一で判断した。その結果、上向き、下向き能面の口を持つ顔をそれぞれ悲しみ、喜びと評定する傾向が顕著に見られたのである。すなわち、眉、目、口がそれぞれ異なる情動を表出している場合、口が表情認知に最も重要な診断的特徴であることが示唆された。

画像3。実験2で使用された合成画像全パターン

今回の研究で得られた知見と過去の研究結果を整合的に解釈した結果、上方向に傾けられた能面は「悲しみ」と評定され、下方向に傾けられた能面は「喜び」と評定されるというものであった。これは、能の世界における、「能面の傾きとその能面が表現する表情」の定義とは反するものだ。

しかし今回の研究は、能面を表情刺激提示として使用した場合、顔のパーツによって異なる刺激を提示する「情動キメラ」となっており、そうした「情動キメラ」から表情を読み取る時には、口の形に基づいて、その表情が判断されることが明らかにされた。

表情を判断する実験では、こうした「情動キメラ」刺激を用いることはなかったため、能面を使うというアイディアが、新たな表情知覚認知メカニズムを明らかにすることにつながったといえるだろう。

能面が下を向くと口角が上がり、口角が上がった顔というのは一般的には笑顔のように見える。しかし、能面が下を向くというのは「悲しみ」の表現であるわけだ。

この矛盾点の解明から、能の美が総合的な藝術として、視覚、聴覚などに訴えかけているというだけではなく、その中に心理学的な「仕掛け」「揺さぶり」を込めることで、より微妙な感情表現を施しているのではないかという「美の解明」へのヒントを与えてくれることになったと研究グループでは説明する。

日本人は表情を見る時に口元を見ないとこれまでの研究ではいわれてきた。下向きの能面の口元が笑顔のようになるということは、能の場面では悲しみを表現する動作(曇らす)の中で、あえてあまり見られないであろう口では逆の感情を示す笑顔を提示しているということになる。

音楽や姿勢で悲しみを表しつつ、すべてが悲しみを表現するのではなく、口元に逆の表情を忍ばせることで、見る側が潜在的に受け取る情動情報は複雑になると考えられ、そうした情動情報の提示を複雑にして、見る側の感情を揺さぶることが、今の能面を完成させた世阿弥の意図だったのではないかと、研究グループは推測する。

能面がミステリアスに見える理由は、こうした情動の科学的観測によって、さらに裏付けられていく可能性があるだろう。能の審美的理念とされる「幽玄」は、見えにくいところに艶やかなものを射すことであったと考えることができる。

一方で能面がキメラ的な複合表情を持つという知見は、モナリザのような西洋美術に見られるミステリアスな情動表出とも共通する部分だ。「美」を司る文化的な要因は、その社会で暮らす人々の心理学的な要因も考慮したものであることが、科学的な分析によってより明らかに示せたと考えられるという。

従来、西洋美術を科学的に分析するという試みはなされてきたが、今回の研究は日本の伝統芸能を科学的に分析するという道を拓くものであると考えるとも研究グループはコメントしている。