数年前、友人らと車で工場地帯を見学するということがありました。今では工場萌えとかいって案内人もいるらしいですけど、いくつもの光がキラキラしていて、建物がライトアップされ、それはとても幻想的な美しい景色だったんですね。夜中の静かな闇の一部がそこだけ光の都市のように浮かび上がってる。人間が生きてゆくために何かを製造しているんだけど、そんな場所がこんなに美しく光煌めいている。そしてパワフル! 「人口的」な場所なのにどこか「大自然」を感じさせるんですよね。複雑に入り組んだ配管は木の枝や根っこに似てる。工場萌え、萌えとはよくいったもんだなと思います、たしかに草冠に太陽と月のような、心の動かされ方がありますね。

夜の工場に限らず、都会の摩天楼もそうだなぁと思い出されます。同じような大自然の美しさを感じることがあります。四角い窓が規則めいた配列で、そのビルがまたいくつか連立していて、景色の中にコピペしまくったような同じような繰り返しのパターン形状がいくつも見えます。それが美しいと思わされる。美しさの本質は「繰り返し」にあるのでしょうか。そういえば昔の瓦屋根だって波模様のくりかえし、法隆寺だって、正倉院だって、大聖堂だって、ピラミッドだって、縄文土器から現在の都庁、東京スカイツリーにしろ、全部この繰り返しの形状。繰り返すそのパターンに、増殖と繁殖の「生命」の力強さを人は感じてしまうからなのでしょうか。繰り返しは単純な形状から、ある数式に基づいた前回のフラクタルのようなものまで様々ですけど、繰り返すということに、創作と感動の重要な関係があるのではないかなあと思います。

繰り返しを恐れる人もいます。それは繁殖や増殖を、この生命感をネガティブに捉えればそれはそうなりますよね。

「大自然に癒される」と人がいうとき、そこには美味い空気や鳥の声、豊かな色彩があり、芽吹く命が溢れていて、そして何か大きな存在に包まれているという安堵感、そのようなことを言っているのかもしれません。でも同時に、自然災害や人を死に至らしめるような猛毒などもその大自然にはあることを思えば、癒されるどころか、自然は恐ろしいということになります。「美しい」とは「快適」ということではないですね、

このように見方によってはどちらにも転ぶようなもの、コインの裏表のような「両極を孕んでいるようなもの」に対しての形容で、「繰り返し」はまさにそのような両極である大自然を想起させるんですね。「繰り返し」は世界共通の時代をも超えた魅力あるテーマで、美術の世界ではとくに好んでこの表現が取り入れられています。「両極がぶつかり合って爆発する、お互い矛盾する対局に引き裂かれながら瞬間瞬間に生きてゆけ!」というようなことを言ったのは岡本太郎でした。100歳おめでとうございます

タナカカツキ


1966年、大阪府出身。弱冠18歳でマンガ家デビュー。以後、映像作家、アーティストとしても活躍。マンガ家として『オッス! トン子ちゃん』、『バカドリル』(天久聖一との共著)など作品多数。1995年に、フルCGアニメ『カエルマン』発売。CM、PV、テレビ番組のオープニングなど、様々な映像制作を手がける。映像作品『ALTOVISION』では「After Effects」や「3ds Max」を駆使して、斬新な映像表現に挑んだ。