AppleはなぜWWDC 2015の基調講演で新音楽サービス「Apple Music」を発表したのだろう。
WWDC 2015は会場を開発者が埋めつくす開発者カンファレンスである。自分たちが絡めない音楽サービスの話では会場の反応が薄くなるのをAppleも予想できたはずだ。しかも、最後に"One more thing..."で40分もの時間を費やす発表だった。「Apple Musicは不用だった」という開発者の反応をすでに何度も筆者は耳にしている。
OS X 、iOSの次期メジャーアップグレード、ネイティブアプリが開発できるwatchOS 2で終わらせても十分だったし、そのほうが開発者カンファレンスらしかった。またApple Musicの立ち上げを考えても、エンターテインメント向きの会場で、音楽関係のメディアや音楽関係者を中心に招待して発表したほうが会場はもっと盛り上がっただろうし、もっとApple Musicにフォーカスした反応や分析を得られたように思う。
ただ、AppleがWWDCでApple Musicを発表した意味をまったく理解できないわけではない。もしAppleがApple Musicを音楽の新たなプラットフォームと位置付け、プラットフォームを語る場であるWWDCであえて発表したのなら、Apple Musicについてもっと深く考えてみる必要がある。
SpotifyとApple Musicは似て非なるサービス
筆者は今、ストリーミング型の音楽市場を開拓した「Spotify」と、Apple Musicのストリーミングサービスの土台になった「Beats Music」の両方を使っている。この2つのサービスはよくストリーミング型音楽サービスでひとくくりにされている。両者には大きな違いがあるが、それはSpotifyとApple Musicの違いでもある。Spotifyはフリーミアムモデルであり、Apple Musicは基本的に有料サービスなのだ。
Spotifyには豊富な音楽ライブラリを自由に再生できる広告付きの無料プランが用意されている。Spotifyを使ってみると、違法ダウンロードがはびこる音楽市場で同サービスが急成長を遂げられた理由を実感できる。違法ダウンロードに手を染めるネットユーザーの不満を解消できる合法サービスなのだ。これまで音楽産業は購入されていない曲を聴かせないように努めてきたが、Spotifyは購入していない音楽を自由に体験できる場になっている。ストリーミングでありながらレスポンスよく動作し、音質も良い。サンプルではなく、誰でも無料で数千万曲の音楽を聴けるから、これまでにない共有体験も生まれる。インターネット世代が求めた音楽の楽しみ方を形にしている。
Apple Musicの場合、無料で利用できるのはオンラインラジオ局「Beats 1」と他のオンラインラジオ(スキップ制限あり)、アーティストをフォローできるソーシャルサービス「Connet」のみ。3000万曲超のApple Musicライブラリから自由に音楽をストリーミング再生するにはApple Musicメンバーにならなければならない。
フリーミアムモデルで成功しているサービスが存在する市場に、後から有料モデルで参入してシェアを奪うのは容易なことではない。YouTubeが音楽向けサービスとして成功しているのは完全無料だからであり、これまでの調査結果を見る限り、YouTubeが開始したサブスクリプション型の有料音楽サービス「YouTube Music Key」に対する消費者の反応はかんばしいものではない。
AppleはApple Musicにおいてエキスパートによるキュレーションを強くアピールしているが、キュレーションは新しいものではなく、すでにBeats Musicの最大のセールス・ポイントになっている。そのBeats Musicが現時点で苦戦しているのだから、キュレーションだけでSpotifyの広告付き無料サービスの壁を打ち破るのは難しいと言わざるを得ない。
名盤が生まれない時代に
有料のApple Musicに勝算はあるのか? もちろんある。Apple Musicのポイントは、同サービスが音楽産業側の支持を得やすいということだ。それはユーザー側からの仕掛けであるSpotifyの弱点でもある。これまでのところ、音楽産業はSpotifyが新たな音楽市場を生み出す存在になると期待して協力しているものの、じわじわと不満が噴出し始めている。
テイラー・スウィフトが昨年、Spotifyのビジネスモデルを批判してSpotifyから撤退したのが大きなニュースになった。Universal Music GroupのLucian Grainge(CEO)は、広告でサポートする無料サービスは長期的に音楽産業を維持できるモデルではないとコメントしている。
Apple Musicを発表した後、AppleのJimmy Iovine氏はThe Guardianのインタビューで、アーティストが自由に作品を作れなくなったと指摘している。「広告主が再生する曲を選ぶようなラジオで取り上げられるのが目的になって、レコード産業は制限され、どんどん身動きが取れなくなっている」。
優れたレーベルが才能を発掘して導き、才能のあるアーティストが優れたスタッフと共に時間をかけて納得いく作品を生み出す――レコード・CD時代にあった、よい作品が生まれる仕組みが瓦解しようとしている。つまり、名曲・名盤が生まれにくくなっているのだ。それでは、数千万曲の過去の財産の上で音楽サービスが展開するだけで、今後の音楽の発展が滞ってしまう。
同じインタビューでAppleのEddie Cue氏(インターネットソフトウエア&サービス担当SVP)が次のように語っている。「われわれの立場はとてもシンプルだ。アーティストとレーベルにコントロールさせる。望むならConnectで無料公開できる。有料ストリーミングで提供したり、iTunes Storeで販売したりすることも可能だ。音楽の権利と提供方法をアーティストとレーベルがコントロールできる」
Connectではアーティストが歌詞や写真、動画、曲などをファンに提供し、ファンはフォローしているアーティストのConnectにコメントを投稿できる。アーティストとファンを直接結ぶソーシャルサービスである。Appleはソーシャルサービスが不得手で、過去にPingという音楽ソーシャルネットワーク/レコメンデーションサービスで失敗しているだけにConnectの前評判は低い。
しかし、Iovine氏やCue氏の言葉どおりなら、Connectはアーティストがファンに直接働きかけ、さまざまなアイデアを形にできる場になる。App Storeがさまざまなアプリ開発者の声をユーザーに届けるプラットフォームであるように、AppleはApple Musicをアーティストとレーベル、音楽ファンを結ぶプラットフォームに育てようとしているのだろう。そのように考えると、同社がWWDCでApple Musicを発表したのもうなずける。
ただ、残念なのは、いきなりミソを付けたことだ。AppleがApple Musicの3カ月のトライアル期間に関して楽曲使用料を支払わない契約を結んでいたことが明らかになった。非常に残念というか、アーティストやレーベルの支持を得ようとするAppleの本気に疑念が影を落とす(テイラー・スウィフトの批判をきっかけにAppleが撤回)。
Spotifyは若くてアイデアにあふれるサービスで、それだけで個人的にはサポートしたくなっているが、フリーミアムモデルが音楽産業に未来を見せられていないのも事実だ。広告頼みの無料サービスが健全でないというIovine氏の指摘は的を射ており、リスナー側からの仕掛けであるSpotifyは今後、無料を入り口にプレミアサービスへより多くのユーザーを導く"優れたフリーミアムサービス"を目指さなければならない。
音楽産業側から働きかけるApple Musicはメンバー数でSpotifyに迫るのが当面の目標であり、それはコアな音楽ファンの心をつかむ有料サービスで実現するべきである。その結果、良循環が生まれる……音楽にとって、今年はそんな年になってほしい。間違っても、逆の方向に動いて、音楽産業で"反Spotify"の傾向が強まり、Apple Musicなど有料音楽サービスに対する消費者の反発が強まるような事態には向かわないでほしいものだ。