Steve Jobs氏公認の評伝「Steve Jobs」が発売されてから、アップルがテレビに進出するという話題が飛び交っている。評伝の終盤、第41章の「That Day Has Come」に、Jobs氏がテレビを再定義しようとしていたと書かれているためだ。

「Steve Jobs」によると、Jobs氏はコンピュータ、音楽プレーヤー、携帯電話と同じように、テレビシステムもシンプルでエレガントなものに変えようとしていた。「全てを簡単に使える統合的なテレビセットを作りたい」「それはユーザーのデバイスとiCloudにシームレスに同期する」と語っていたという。「想像できる最もシンプルなユーザーインタフェース」(Jobs氏)で、ユーザーはAVシステムの複雑なリモコンやケーブルのチャンネルと格闘する必要がなくなる。同氏は最後に「(その解に)ついにたどり着いた(I finally cracked it)」と述べたというのだ。

テレビ騒動を起こした「I finally cracked it」という一言

AppleはiPhone 4Sに音声アシスタント「Siri」をベータ搭載した。同テクノロジが成熟すれば、非常にシンプルなUIでテレビを操作し、百数十チャンネルのコンテンツでも容易にフィルタリングできそうだ。しかし、それだけではないだろう。Appleがテレビを手がけるなら、操作性だけではなく、コンテンツ提供からユーザーにとって使いやすいものに変えてくるはずだ。

Daring FireballのJohn Gruber氏はアプリが新しいチャンネルになると予想する。例えば電子版の雑誌では、テキストと写真をレイアウトしただけではなく、読者がインタラクティブにコンテンツを楽しめるアプリ版が増えている。Appleは、iOS 5にアプリ版の新聞・雑誌の定期購読を管理する専用アプリNewsstandを追加した。その効果で、iPad向けにWIRED、GQ、The New Yorkerなどを提供するConde NastはiPadアプリ版の定期購読が268%増加したそうだ。

Gruber氏はテレビも同じように、視聴者がコンテンツを通じて様々な形でインタラクトできる番組配信アプリで差別化を図る番組提供者が増えると見る。新たな番組視聴体験だけではなく、収入モデルも広げられるだろう。AppleはNewsstandのような、ユーザーが番組アプリを容易に管理・フォローできる環境を整えて、番組提供者のアプリ活用を促す。これは従来のテレビ放送を否定するものではなく、テレビ放送をストリーミング受信するアプリも用意されて然るべきだ。しかし文字と写真をレイアウトしただけの単純な電子版の雑誌が古くさく感じられ始めたように、テレビ放送をただ視聴するだけのスタイルは次第に昔のメディアと見なされるようになると予想する。もちろん番組アプリだけではなく、ゲームやクラウドサービスへのアクセスなど、今日のモバイルアプリの開発者がテレビに進出するチャンスも広がる。

テレビの再定義、くさびを打つべきものは…

Jobs氏がテレビを再定義しようとしていたのは興味深いことだが、シンプルなUIと統合的なソリューションを以て同氏が「I finally cracked it」と述べたという見方には何か違和感を覚える。

テレビを変えようとしているのはAppleだけではなく、すでにライバルが同様の動きを見せている。Googleのテレビ向けプラットフォーム「Google TV」のメジャーアップデートの提供が今週から始まっているが、最新のバージョン2ではテレビ向けのAndroidアプリの利用が可能になっている。MicrosoftもKinectのコントローラ・フリーの操作をゲームやエンターテインメント以外の用途に広げようと積極的だ。Appleの00年代の成功を支えてきたデザイン重視の姿勢と、ソフトウエア/ ハードウエア/ サービスを統合した手法もライバルに研究しつくされている。そもそもJobs氏の評伝は、同氏の急逝とは関係なく出版が予定されていたものだ。あのJobs氏が評伝を通じて新カテゴリの製品プロジェクトを事前に明かすとは考えられない。むしろ同氏がテレビについて言及した背景には、シンプルなUIや統合的なソリューションとは別の勝算があったと考える方が自然だ。

2007年にAppleが米国で初代iPhoneを発売した時、前面にハードウエアボタンが1つしかないシンプルなデザイン、マルチタッチを使った操作の革新性が話題になった。だが、それだけではiPhoneの成功は難しかっただろう。携帯キャリアAT&Tとのパートナーシップを実現したからこそ、iPhoneの利用体験は完成した。

というのも、iPhoneが登場する以前の米国の一般向け携帯電話サービスは本当に乏しいものだった。利用できるのは音声通話とテキストのみ。米携帯キャリアは音声サービスからの短期的な利益を追求するばかりで、長期的な視野を持ってデータサービス強化に乗り出そうとはしなかった。BlackberryやTreo向けの携帯用データサービスがあるにはあったが、主にビジネスユーザーを対象にしており、一般ユーザーに身近な存在ではなかった。そのような状況でAppleは、手頃な価格(月額30ドル程度)で無制限に利用できるデータサービス、iPhoneのイメージを重んじた販売方法など、iPhoneを根付かせるのに必要な条件をAT&Tに受け入れさせた。当時AT&Tは米携帯トップのVerizonに追いつこうと懸命だったが、それでも海のものとも山のものともつかぬiPhoneへの投資には躊躇したはずだ。AppleはiPhoneの独占販売と引き換えに、AT&Tを旧来の携帯電話産業を変えるための同志に仕立て上げ、そこからiPhoneの快進撃が始まった。まさに"Cracked it"である。

同じことが、米国の家庭に最も浸透しているテレビサービスであるケーブルにも当てはまる。ケーブルは各地域を1社が独占しており、とにかくテレビに関する全てをコントロールしたがる。例えばデジタルビデオレコーダーのTiVoや、Windows Media Centerなどを活用することでテレビ視聴がより便利なものになるはずだが、そうしたDVR(ハードディスク録画)機能を備えた機器向けのケーブルカードを提供するのを渋る。申し込むと、しつこくケーブル会社が提供するDVR機能付きセットトップボックスの利用を勧められる。それが満足できる製品なら納得できるが、ケーブル会社のDVR機能付きセットトップボックスはUIが洗練されていないものばかりで選択肢も少ない。統合的かつクローズドなスタイルで、乏しい利用体験を押しつけてくるから始末に負えない。

ケーブル会社は映画・テレビ番組のオンデマンド配信にも力を注いでいるが、UIやリモコンは使いづらく、料金の競争力もないから、オンラインストリーミングサービスやダウンロードサービスにユーザーが流れてしまう。しかし、米国でケーブル会社はブロードバンドサービスプロバイダ大手でもあるため、インターネットを必要とするサービスや機器は首根っこを掴まれているも同然で、ケーブル会社の領域へ大胆に踏み込めずにいる。AppleがApple TVを「ホビー」という位置にとどめている所以である。

Jobs氏は初代iPhoneの時にAT&Tを引き込んだように、独占的なケーブルテレビ業界にくさびを打ち込む(crack) 何かを得たのだろう。ただ、Appleがこれまで音楽産業や映画・TV産業、通信大手と渡り合ってこれたのは、"現実歪曲"と表現されるJobs氏の交渉術があったからである。はたしてTim Cook氏をCEOとする新体制でも、それを遂行できるだろうか。

Appleがいま実際にテレビ・プロジェクトを進めているのかは分からないが、Jobs氏が評伝の著者Walter Isaacson氏に語ったテレビへの思いは、同氏がやり残したプロジェクトとして伝わっている。それを形にすることで、奇しくもAppleは今も何かを"変える力"を備えていると証明できる。