今、「飛ぶように売れるコンピュータ」が英国で話題だ。といっても、Appleの新製品とかではなく、「Raspberry Pi」という日本では馴染のない製品で、手のひらにのる簡素なボードコンピュータである。先日、認定販売会社の英国RS Componentsが日本でも発売する予定を発表した。「ラズベリーパイ」というおいしそうな名前とは裏腹に、同コンピュータは重大なミッションを掲げるプロジェクトに基づく製品であり、チャレンジはこれからと言えそうだ。
「ホットケーキのように売れる」という英語の慣用句があるが、Raspberry Piが数十分で完売したと聞くと、これこそ「ホットケーキ」だなと思う。2月29日朝6時、Raspberry Piの販売が開始するや、販売店のPremier FarnellとRS Componentsにはアクセスが殺到、Premier Farnellではピークトラフィックが300%アップし、発注や予約など何らかのインタラクションが毎秒600件発生していたという。
結果、あっという間に用意していた最初の1万台を売り切った。価格35ドルと聞くとなるほどとも思えるが、マーケティングなどの販売促進活動は一切行っていないのだ。しかも、購入は1人1台に限定していた。
クレジットカードサイズではあるが、Raspberry Piは立派なコンピュータだ。700MHzのARM 11プロセッサを搭載したBroadcom製SoC、Open GLES 2.0対応のGPUを持ち、メモリは256MBでストレージはSDカードを利用する。USB、HDMI、Ethernetなどの接続インタフェースを備え、Linuxをべースとする(推奨はFedora)。パフォーマンスは「Xbox 1」程度で、H.264 1080p30のブルーレイクラスの動画再生も可能というパワフルなものだ。
今回売り出されたのは「Model B」で、さらに安価なModel A(25ドル、Ethernetポートなし)も登場する計画だ。なお、Raspberry Piは英国発製品だが、コンポーネントのほとんどが取引されているドルとの為替市場の影響を低減するためにドルで販売している。
サイズや価格も画期的だが、Raspberry Piは壮大なミッションを持つ。それは「教育」だ。教育用のコンピュータというと、MIT Media Labsが立ち上げた「One Laptop per Child(OLPC)」が頭に浮かぶが、OLPCが途上国の子供をターゲットとしているが、Raspberry Piは違う。
Raspberry Piプロジェクトは2006年頃、オックスフォード大のコンピュータラボのEben Upton氏らが学生のコンピュータプログラムのスキルが下がってきたことに懸念を抱き始めたことが出発地点となる。1990年代には同大を志願する学生の多くが趣味でプログラミングを経験していたが、2000年代にはプログラミングをやったことがある学生がぐっと減ったという。
当時と比べて異なるのは環境の変化だ。プログラミングに関心を持つ「入り口」となるような端末がなくなっているのだ。「当時の家庭にあった『Amiga『BBC Micro』『Spectrum ZX』『Commodore 64』といったマシンは、家庭用PCやゲーム機にリプレースされた」という。同時に、学校で教えるスキルも変わり、プログラミングからWordやExcelの使い方に移った。
コンピュータに囲まれているという点では現在ほど恵まれた時代はないはずだが、スマートフォン、タブレット、PC、ゲームと常時接続されたさまざまな端末を使いこなす子供たちはそれらの使い方を知っていても、プログラムを書くことへの関心は育っておらず、そのチャンスもなかなかないということだろう。
それから試行錯誤を経て、Raspberry Piの原型となるプロトタイプが2008年頃に完成した。当時のスマホブームにより、モバイル端末に使われるプロセッサの価格が下がったことも後押しした。その頃、David Braben氏――BBC Microゲームの「Elite」、それに「Rollercoaster Tycoon」などを作成した人物だ――らが加わり、非営利団体のRaspberry Pi Foundationを設立した。
こうした背景には、ゲームなどデジタルクリエーション産業を強みとしてきたと英国の歴史がある。Lara Croftの「Tomb Raider」(トゥームレイダー)、「Grand Theft Auto」(グランド・セフト・オート)などは英国で生まれたゲームだ。そのTomb Raiderに貢献し、「Fighting Fantasy」(ファイティング・ファンタジー)を共同作成したIan Livingstone氏は、BBCに対し、デジタル時代にあって英国のデジタルクリエーション産業を支えるためのスキルが消えつつあると警笛を鳴らしている。「本にたとえると、読む部分は教えているが、書く部分は教えていない」とLivingstone氏。
もちろん、コンテンツだけではない。コンピュータ分野も、英国は第2次世界大戦時代にEnigma暗号解読マシンを作り出した伝統を持つ。スマホで知名度を上げた英ARMは「BBC Micro」などで使われたチップを開発していたAcron Computersから生まれた企業だし、モバイルOS「Symbian」も英国産と言える。
Livingstone氏らの請願もあって、英政府はICT教育カリキュラムの見直しに乗り出した。毎年1月に開かれる教育とICTのイベント「BETT」で、教育相のMichael Gove氏は「創造性を育てるには、単にできたアプリを使うだけでなく、作ることに重点を置くべき」と述べた。スピーチ中、Raspberry Piにも言及している。
このように、Raspberry Piの登場、教育方針の改革と素地が少し整いはじめた。今後は、教材や教師などソフト面を充実させていく必要がある。
スタートは悪くない。「Raspberry Piを使って車載システムを作りたい」、センサーを接続して天気ステーションを……、オンラインのラジオ局を……など、さまざまなアイデアがフォーラムに上がっている。現在は主として大人たちがわくわくしている様子だが、今後子供たちに浸透すればRaspberry Piは使命を果たせそうだ。
「子供たちにプログラミングを」という言葉は、JoliCloudやNetvibesを立ち上げたフランスの起業家・Tariq Krim氏も口にしていた。プログラムを作ることを仕事としなくても、これだけデジタルサービスに囲まれるなか、今後はコードの基本的なリテラシーが必要になると思う。日本でもぜひ、議論が進んでほしいことの1つである。