コピーライター、エッセイスト、作詞家、そしてほぼ日刊イトイ新聞の主宰でもある糸井重里さん。さまざまな顔を持ち、Webだけでなくテレビ、雑誌など多くの媒体に登場する「話すひと」である糸井さんだが、その一方で自身がインタビューを行うこともある「聞くひと」でもある。今回のインタビューでも、相手の話の中身を咀嚼して、考えてから答えてくれたのが印象的だった。

インタビューの前編では手帳やメモについて、またそこから生まれるクリエイティブについてお話いただいたが、後編では引退を発表した宮崎駿さんのことや、日々更新しているTwitterのこと、福島のこと、そして「クリエイティブな仕事」など、普段糸井さんが多くは語らないであろう部分について、単刀直入にうかがった。

糸井重里
1948年11月10日生まれ。東京糸井重里事務所 代表取締役 社長。1998年にWebサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」を立ち上げ、毎日コンテンツを更新し続けている。著書に「ぽてんしゃる。」、「ボールのようなことば。」など。

――ジブリ作品のコピー考案や「となりのトトロ」では声優としてご一緒された宮崎駿監督が、引退会見で『自分の10年はとっくに終わっている』と語っていました。作家やアーティストにおいて、クリエイティビティには期限ががあると思いますか?

多分、その場で出た宮崎さんならではの口からでまかせでしょ(笑) 全然終わってないと思う。だって、本当に終わっていたら、絶対にそんなこと言えないと思うんですよ。

10年以上クリエイティブでいる人は世の中にたくさんいるし、何より宮崎さんは「こだわりの人」だからね。だから、宮崎さんのいった「10年」はそれこそ「黒澤映画の時代の10年」みたいな意味なんじゃないでしょうか。

宮崎さんが「私は自由です」とコメントしていましたが、やっぱり、"みんなが望んでる長編を作らなきゃ"というプレッシャーはずっとあったと思うんです。「今、満足できるかどうか」っていうことが大事だと僕は思っていて、今回のことで宮崎さんは自由を手に入れて、ここから本当に自分のやりたいことができるようになるんじゃないかなと感じています。

――では、糸井さんの「これからの10年」は?

「タダ働きからスタートする面白いこと」が大切で、たまらなく楽しくなってきているんです。ほぼ日で、気仙沼のつながりでやっていることもそうです。「気仙沼のほぼ日」を作ってからの一連の動きは仕事ではないけれど、もしもやっていなかったら、僕は(震災のことで)もっと強く悩んでいたと思う。

喜んでほしいけど、うまくいかないかもしれない。責任感がないわけでもないし、でも義務感があるわけでもない。そのなかで動機を維持していくことが重要なので。2011年に震災がなかったら、僕は引退していたかもしれないですね。

――気仙沼だけでなく、福島県にもよく足をはこんでいらっしゃいますが。

はい。福島にはいろんな取り組みをしている人がいて、警戒区域が解除された地域で米作りをしてみた人や、「子供たちを外で遊ばせられません」って言われている地域に、ひとりで公園を作った人もいるんですよ。

米づくりの人は、亡くなったご両親の生業が農家だったので、その見よう見まねで始めたら、苗代を全部ダメにしちゃった。でも、それを見たほかのエリアのお百姓さんが、「しょうがないなあ」って言いながらも苗代をくれたんです。それで実際に作ってみたら、数値に何の問題もない、商品化できる米ができたんです。

公園を作った人は、ひとりで土地を探すところから始めたんだけど、やっているうちに、周りの人が呆れながらも手伝ってくれたそうです。さらに、よその工事をしていた人が「手作業じゃムリだよ」って、ユンボで掘り返してくれたとか(笑)。ずっとそこに住んでいる人は毎日線量計でチェックしていて、その結果「子どもを遊ばせられる」って分かったから、公園づくりが進められていったんです。

――なるほど。

現場にいる人は現実を、そして事実を、本当によくわかっていると思います。リスクを語る人の気持ちもわからないでもないけれど、「ある一種の考え方」を守るために外からうるさく言うのって、ちょっと違うんじゃないかなって。

さっきお話した人たちの、何らか動いて、いい方向に向かうことならその手伝いをしたいというスタンスが、すごくいいなって思うんです。東京でずっと仕事をしているだけでは埋まらなかった自分の心が、力がそういう場所で使えるということがすごく嬉しいなって、今は感じています。

次のページでは、糸井さんが日々つぶやいているTwitterの運用方法や、「ほぼ日」というWeb媒体の見出しの付け方について聞いていく。