2024年10月からスタートした連載「変革の軌跡~NECが歩んだ125年」では、1899年に創業したNECの125年に及ぶ長い歴史をたどってきた。日本初の外資系企業としてスタートしたNECは、通信事業を祖業として事業を拡大。コンピュータ技術とコミュニケーション技術.の融合を意味する「C&C(コンピュータ&コミュニケーション)」を1977年に打ち出し、コンピュータ事業や半導体事業を加速。2013年には、自らの存在価値を「社会価値創造型企業」と位置づけ、これを「第3の創業」と称し、その具体的な取り組みは、2024年5月に発表した「BluStellar」につながっている。その歴史を振り返ると、NECは、社会になくてはならない企業であり続けるために、大きな変革を繰り返し、提供価値を変化させながら、存在価値を高めてきたともいえる。
NECはなぜ変わりつづけることができたのか、そして、NECはこれからどこに行こうとしているのか。連載の最終回として、NECの森田隆之社長兼CEOに、NECの過去、現在、未来を聞いた。
―― 125年という長いNECの歴史から感じたのは、常に変革をしつづけてきた企業であったという点です。NECは、なぜ変革を繰り返すことができたのでしょうか。
森田: NECが身を置いてきたのは、常に最も激変する市場であったということがベースにあります。
創業期のNECは、電話の普及に取り組み、通信技術で近代日本の発展に貢献しました。また、第2の創業といえる1977年のC&C宣言では、技術の進化という観点からコンピュータと通信がひとつになることをいち早く指摘し、これをNECの成長の推進力としました。このときには、PC事業の拡大をはじめとして、民需事業の拡大に取り組み、特定の通信事業者に依存していた体質からの脱却を図るといった取り組みも行いました。2013年には、NECの存在価値を「社会価値創造型企業」と定め、安全、安心、公平、効率という社会価値を創造し、誰もが人間性を十分に発揮できる持続可能な社会の実現を目指しています。これは、NECのビジネスモデルを、テクノロジーセントリックから、価値創造セントリックへと移行させる大きな変革といえるものです。目指しているのは、お客様や社会のDXを加速する会社であり、以前のように、メーカーやシステムインテグレータといった単純な括りでは語ることができない「社会価値創造型企業」となることが、「第3の創業」としている理由です。
NECの歴史を振り返ると、「変わろう」とか、「変わらなきゃいけない」ではなく、「変わらなければ生き残れない」という危機感が常にあったといえます。その危機感が薄れていたのが2000年代後半です。過去の成功体験や、縦割り組織の旧弊にとらわれて、時代に先駆けた変化ができなくなっていました。また、ネット時代の到来によるビジネスモデルの変化や、モノづくりトレンドの変化、企業の勢力図にも大きな変化が生まれているのにも関わらず、それを的確に捉えることができず、業績が悪化し、事業整理を余儀なくされました。変わり続けなければ、生き残れないということを実感した出来事だったともいえます。
企業は生き物と同じです。その点から見ると、数年前までのNECは、生きることに精一杯の状況だったといえます。生きることに精一杯だと、そのために後向きの仕事の比重が高くなり、いまのビジネスを将来どうするのか、どう成長させるのか、どうやってより良い会社にしていくのか、そして、社会のなかでどういう存在になるのかといったことを考える時間が作れなくなります。いわば、健全な時間の使い方ができないことになります。NECは、しばらくの間、生きることに精一杯という状況のなかにありましたが、そこからは脱却したといえます。ただし、これは、自分や社内への戒めでもありますが、少し良くなると浮かれてしまったり、過去のことを忘れてしまったりして、足をすくわれてしまうことが起きやすい。NECは、ようやく、普通に物事を考えられる状況になったにすぎない。スタート時点に立ったにすぎない。そう思っています。
NECは、変わり続けることを、変えない。これが、NEC社長としての私の基本姿勢です。NECは変わり続けてきた企業です。それが、いかに大事なのか、ということを社員に伝えています。変化が激しい世の中において、NECは、そのなかでも激変する市場に身を置いています。その市場のなかには、NECが成長することができる大きなオポチュニティがある一方で、止まったら生き残れないという状況にあるのも事実です。「いまのままでいい」とか、「最適な状況」といった状態はありません。ミッションやパーパスをきちっと自覚し、どん欲に変化することが大事だと考えています。
―― 外から見ていて感じるのは、NECは逃げ出さない企業であるという点です。
森田: 確かに、125年の歴史のなかで、変わらないものをあげるならば、そのひとつが「逃げ出さない」という点になります。
NECは長年に渡り、ミッションクリティカルのプロジェクトに関わり、自分たちがインフラを支えてきたという自負があります。また、自分たちの後ろには誰もいない、自分たちがやり切るしかないという高い意識を持っています。プロジェクトがトラブっても、撤退することはしません。万が一、トラブルが発生しても、そのあとの対応については、お客様としっかりと合意をし、対策を進めることになります。自分たちの利益だけのために、放り出すことは決してしません。それは、真面目過ぎるぐらいに真面目な点で(笑)、企業の文化として染みついたものです。125年間培ってきた揺るぎのない姿勢です。
―― 森田社長兼CEOは、NECの過去の経営者からどんなことを学んでいますか。
森田: NECは日本初の外資系企業として誕生したわけですが、創業者の岩垂邦彦氏は、発明王であるトーマス・エジソン氏のもとで汗を流した人物であり、アントレプレナーシップに富んだ人物でした。そうした人物が作った会社であるということを、NECグループの社員は、しっかりと理解しておくべきです。
NECは、創業にあわせて、営業部門の基本方針として、「Better Products, Better Service」のスローガンを掲げました。ここにも、NECらしさが出ています。Bestとせずに、Betterとしたことで、もっと良くしようという意識が働くわけです。技術は、常に改善し、進化を続け、その活動には終わりがありません。技術に傾注しているNECらしい言葉であり、常に変わっていくNECの姿勢を示した言葉だといえます。
C&Cを提唱し、NECの「第2の創業」を主導した小林宏治さんは、私が1983年に入社したときには会長でした。ある日、海外に英文レターを書くというので、それをまとめる仕事をやったことがありました。まだ入社1、2年目の頃です。そのレターを見た小林さんが私たちのフロアにやってきて、「これ、誰が作ったんだ」と言われたんです。出来がかなり良かったみたいで(笑)。ただ、私のやり方は、「英作文」ではなくて、「英借分」で(笑)、あちこちの文章から切り貼りして作ったのです。それを説明したら、「まぁ、そういうことだよなぁ」と笑いながら、「でも、よく勉強しているということだ」と言ってくれました。
小林さんは、「経営の心得10箇条」を示し、そのなかで「安定な企業は不安定で、不安定な企業は安定であると心得よ」と述べています。これは、安定することなく、自らが変わることを恐れない経営を行うことの大切さを説いています。世の中が激変するいまこそ、この言葉の重要性を感じています。
C&C宣言は、その後のインターネット時代の到来を予見したものであり、慧眼だったといえます。そして、その後のNECの成長の推進力となったことを見ても、正しい選択だったといえます。
もうひとつ付け加えれば、このとき、NECは、原子力はやらないと決断しました。私はこの決断も、NECにとっては大きな転換点だったと思っています。
関本忠弘さんは、民需やPCの領域に事業を展開し、通信事業者一社への依存体質や、通信事業者の製造部門のような位置づけから脱却する経営を進めました。自分たちの技術を誇りに持ち、自分たちが主権を持った企業として自主自立を目指し、それを実現することができました。
私が一番勉強になったのは、米パッカードベルの買収です。PCが企業において一部の人が使うものから、コンシューマへと広がるなかで、スーパーマーケットなどの新たな販路を通じてPCを販売し、低価格戦略によって一気にシェアを伸ばした企業です。創業者は、パッカードベルのブランドを外から買ってきてまでPCに名付けたほどのこだわりを持っていました。この買収のコンセプトそのものは決して間違ってはいませんでした。しかし、NECにとっては、実力以上のことをやってしまったという反省があります。また、いま振り返ると、このビジネスに対してNECは、「腰が入っていなかった」ともいえます。NECは最終的には2000億円規模の投資を行いましたが、結局、赤字から脱却することはできませんでした。明らかに失敗です。
私は30代後半のときに、財務担当専務から、この事業の後処理を担当するように言われ、事業責任者のもとで、コピー取りといった作業も行いながら、事業の処理を行っていきました。最初は、3カ月間だったはずの仕事が、1年になり、2年になり、それが3年続き、結果として、パッカードベルをきれいに清算するまでに約15年の歳月がかかりました。私は最後の最後までこれを担当しました。
このとき、赤字を止めるにはどうすべきか、処理すべきことはなにか、今期末までにどんな答えを出さなくてはならないのかといったことが求められ、そのことばかりを考えていました。一方で、事業というものは、どう考えるべきか、ステークホルダーとはどう付き合うべきか、そして、現場を担当している事業責任者とどう向き合うのべきなのかといったことも学びました。
このときの経験が生き、その後のNECのM&A案件や、構造改革の仕事は、ほとんど私が担当するようになりました。買収だけではなく、事業撤退や事業売却、ジョイントベンチャーの設立など、様々なことを経験しましたし、キャッシュがなくなる状態のなか、事業としての価値をうまく創出し、事業が回るようにするためにはどうするかといったノウハウも蓄積できました。
そうした経験を繰り返すなかで、危機意識はどんどん高っていき、事業に対する眼は、ほかの人よりも、何倍もシビアになったと思っています。
財務会計には、PL、BL、キャッシュフローといった指標がありますが、これだけを見ても、事業の実態はわかりません。非財務指標を含めたデータをしっかりと見るだけでなく、そこに人事としてのセンスや、事業を捉えるセンス、そして常識がないとうまくいきません。たとえば、利益が出ていながらも倒産するといったことが発生するのは、事業を捉えるセンスや、経営の常識がないということにほかなりません。
私は、M&Aなどを行う上でひとつ学んだことがあります。それは、NECでは苦しい事業であっても、事業そのものには価値があり、ほかの人から見れば、もっと価値を高めることができる可能性があるという点です。オーナーシップが変わることによって、企業価値が顕在化することがあるわけで、これは結果として社会貢献にもつながることを体験しました。
―― 具体的にはどんなケースがありますか。
森田: ひとつの事例がPC事業です。パッカードベルの清算とともに、NECは、海外PC事業から撤退しました。その後も国内PC事業だけを継続していたわけです。しかし、PC事業は、コモディティ化しており、ハードウェアの利益が薄く、スケールを追求する必要があります。これは国内だけで事業をやっていたとしても、構造に変わりはありません。国内ではトップシェアですが、利幅はどんどん少なくなり、その結果、赤字を計上してしまう。そこで構造改革を行い、一時的に良化するが、構造そのものに問題がありますから、すぐに赤字に戻ってしまう。国内PC事業は、ますます厳しくなることは明らかでしたが、PC事業を担当していた役員はそれがわかっていても、NEC自らが次の決断をすることが難しかったのだろうと思います。
自分たちだけでやっていても、いつまでも続かないことは誰の目にも明らかです。しかし、撤退するとなると莫大なコストがかかる。一方で、どこかと一緒にならざるを得ないと思っても、当時のNECには、そういう気持ちはありませんでしたから、出口が見えずに、思考が停止し、意思決定ができない状態に陥ってしまっていたといえます。
私は、若い時から、PC事業に関するM&Aの案件があるたびに、上層部に話を持っていったのですが、持っていくたびに断られました。ただ、NECのPC事業は、直接の担当を離れてからも、ずっと気になっていて、意識的に注視していました。
そうしたなかで出てきたのがレノボグループとのジョインベンチャーの話です。レノボグループは、日本市場に本格進出するために相手を探しており、その流れでNECにも話がきました。
議論のなかでは、NECブランドをしばらく使用するが、日本の生産拠点は不要で、中国からPCを出荷するといった案も出ました。レノボには、IBMのThinkPad事業を買収した経験があり、それと同じことをやろうとしていたわけです。私は、「それでは絶対にうまく行かない」と答えました。当時のレノボグループは、日本において、NECのブランド価値が高いことを理解していても、これを支えているのが、山形県米沢市のPC工場であるということを理解していませんでした。米沢事業場では、トヨタ生産方式を導入し、カイゼンを続ける優れた工場であり、これだけの価値を持った生産拠点を使わない手はないと私は提案したのです。
最終的には、レノボ51%、NEC49%のイコールパートナーとし、コマーシャルPCについてはNECが責任を持って販売することにしました(※編集部注・2025年4月からはコンシューマPCの販売機能をNECパーソナルコンピュータに移管)。その結果、NECのPC事業は、レノボグループのボリュームを活用することで、想定通りにスケールメリットが生まれ、NECが品質を含めてサポートするため、お客様にとっても、引き続き、PCを安心して導入できる環境が維持されました。お客様に対しても価値を提供でき、社会にも貢献できた事案だといえます。また、レノボグループにとってサプライズだったのは、全世界の数あるレノボグループの拠点のなかで、NECパーソナルコンピュータが最も収益性が高い子会社になったということでした。
―― 2000年代に入ってから、NECは大規模な選択と集中を行いました。いまから考えると手放さない方がよかった技術や、NECのブランディングにはプラスになったと思われるものもあります。
森田: 技術やブランディングの話と、経営の話はまったく別のものです。NECは、技術者集団であり、優れた技術が数多くありますが、それだけを見ていると、あっちも勝てそうだ、こっちも勝てそうだ、あるいは、これもやりたいということになり、結果として全部をやってしまい、どれも勝てないというのが、従来のNECの姿でした。
市場で勝つためには、どれだけの資金やリソースがいるのかということを的確に判断しなくてはなりません。自分たちが戦っている市場はどこなのかということも明確にしなくはなりません。PC事業のように、私たちが日本だけで戦いたいと思っていても、相手がグローバルプレーヤーであれば、グローバルで戦うことも視野に入れなくてはなりません。そして、その事業セグメントを構成している要素はなんなのか、そのビジネスがどういったメカニズムで成り立つのかといったことも、しっかりと検証しなくてはいけません。
NECは、リチウムイオン電池のビジネスに乗り出していた時期がありました。これも、さまざまな要素をとらえ、最も成功するシナリオをシミュレーションすると、ピーク時には累計で1兆円以上のマイナスキャッシュが必要になることがわかりました。そこから徐々に回復し、数年後にブレークイーブンになり、ようやくキャッシュがポジティブになるというシナリオです。しかし、NECの状況を考えると、リチウムイオン電池に対して、合理性を持って投資できる範囲は、累積2000億円のマイナスキャッシュまででした。これでは成功シナリオが成り立たず、競合にも負け、望むポジションを取ることができません。それが事業を売却した理由です。
たとえば、ひとつの技術に対しては、年間500億円の投資が4年間続けて必要であり、もうひとつの技術には、年間1000億円の投資が、より長期間に渡って継続的に行う必要であるといった場合に、いまのNECならば、どこまでならば耐えられるのか、ライフサイクルをもとに、いつ、どれぐらいのリターンを得られるのか、この技術はどんなソリューションと組み合わせられるのか、NECの企業価値を高める仕組みを作れるのかといったことを考えないといけません。リソースと時間には限界があります。これはやるが、こっちはやめようということは、しっかりと決めなくてはなりません。NECは高度な計算式は解けるが、単純な足し算、引き算ができないというのが、かつての経営の姿でした。やる気や意欲があっただけでは経営は成り立ちません。そこは、しっかりと算数を行うことが必要です。
―― NECが技術の会社であることを裏づけるように、LLM(大規模言語モデル)である「cotomi」は、独自にゼロから開発しました。この狙いはなんですか。
森田: 私は、いま、新たな産業革命の前夜を迎えていると思っています。それは、AIによってもたらされるものです。AIは、プラットフォームになり、人々の生活のあらゆるところに入り込んでくることになります。そして、AIは、DXの中核になります。OpenAIやマイクロソフトなどのAIを使うことは重要ですが、自分たちもLLMを持っていないと、どういうデータを活用するか、それをもとにどんなアウトプットができるのかを知ることができません。それを知っているか、知らないかで、AIに対する理解や活用方法は大きく変わってきます。
NECは、どのように生成AIが作られ、どのように進化していくのかを深く理解し、それに基づいて事業展開をしている数少ない企業の1社です。NECのLLMは、スマホやPC、サーバー、データセンター、クラウドなど、それぞれに搭載できるサイズの生成AIを独自に開発し、提供することが可能です。データセット含めて、クローズに学習し、チューンアップができるものも提供できます。そして、業務や業種に特化したさまざまなアプリケーションの領域にもAIを活用できます。私は、LLMの活用領域としては、アプリケーションが最も大きな市場規模になると考えています。NECはその領域にしっかりとアプローチできる企業だといえます。
もうひとつ、NECが独自開発にこだわる理由があります。それは、AIのテクノロジーをすべて海外企業に依存してしまうと、日本の文化や日本の経済安全保障といったことまで、他人に委ねることになってしまうという点です。それは、絶対に避けるべきです。そのためには、日本発の技術という選択肢を持つことが大切であり、NECは、その選択肢を提供する企業になります。これは、米国か、中国かといったように、世界を分断する選択が求められるなかで、日本という別の選択肢を用意することにもつながります。企業には国籍があります。NECは米国企業にはなれませんし、中国企業にもなれません。しかし、日本に国籍を持つ企業であり、その存在は、いまの時代において重要な役割を担うことになります。地政学的にも、日本の国籍を持つ企業は、重要なポジションにあります。
ただ、海外に行くと、NECの名前は知っているが、なにをやっている会社からわからないと言われます。NECは何をしている会社なのかといったことを、ひとことで語れる会社にしなくてはなりません。
―― NECは、2013年に「第3の創業」と位置づける「社会価値創造型企業」への変革を打ち出しました。社会価値創造型企業によって、何を目指しますか。
森田: 2012年に、私を含む当時の経営陣は、「自分たちは社会にとって必要なのか」と自らに問いかけました。その答えが、パーパス(存在意義)です。2013年に完成したパーパスでは、「安全・安心・公平・効率という社会価値を創造し、誰もが人間性を十分に発揮できる持続可能な社会の実現を目指します」とし、同時に、プロダクト型から価値創造型の企業に変革することを方針に掲げました。NECは、DXで社会を変える企業であり、テクノロジーによって、よりよい未来を創る会社です。しかし、テクノロジーを革新するだけでは駄目です。テクノロジーを社会実装することが大切であり、社会実装をして、社会変革をしてこそ意味があります。これは、NECがパーパスで掲げたポイントでもあり、社会価値創造型企業としての役割でもあります。
1977年の「C&C」宣言は、テクノロジービジョンであり、C&Cがなにに使えるのか、何ができるのかといったことは明確に言っていませんでした。当時はそれでもよかったのですが、いまは、テクノロジーやデジタル技術を活用することで、なにが変わるのかということを明確にすることが必要であります。より良い世の中にするために、テクノロジーを社会実装していくことが大切です。
私は、テクノロジーそのものには色がないと考えています。テクノロジーに色を付けるのは人です。テクノロジーをどう使っていくかは、人や企業次第であり、それによって、初めてテクノロジーに色をつくことになります。ここでいう色というのは、「人間性の尊重」とも言い換えることができます。テクノロジーを使い、より安全で、安心で、利便性の高い世の中を作ることが、NECが社会価値創造型企業になることにつながります。
―― NECは、2024年5月に、価値創造モデル「BluStellar(ブルーステラ)」を発表しました。このブランドが徐々に浸透してきましたね。
森田: NECが社会価値創造型企業を目指す上で、その中核となるDXプラットフォームにも名前がないとおかしいだろうと考え、名前をつけることにしました。実際、社外からはBluStellarに対する関心が高まり、社内では、自分たちが何を提供できるのかといったことを、より深く考えるようになりました。そして、自分たちで責任を持って、社会価値を創造するという姿勢が明確になりました。BluStellarは、社会価値創造型企業の役割を進化させることができ、これによって、「創業3.1」といえるフェーズを迎えたともいえます
ただ、BluStellarは、スタティック(静的)なものではありません。BluStellarの範囲は限定せず、区別することなく、進化させていきます。また、オープンなエコシステムをもとに推進するものであり、より広がりを持った取り組みになっていきます。今後は、ストーリーやシナリオが増え、ホリゾンタル領域のBluStellarだけでなく、バーティカル領域のBluStellarも出てくることになります。パートナーとともに、BluStellarによって、どんな付加価値が提供でき、社会価値を創造できるのかといったことを一緒に考えていく共創モデルになることを目指していきます。
―― 126年目以降のNECはどんな企業を目指しますか。
森田: BluStellarを軸に、社会価値創造型企業としての役割をさらに加速していきます。
現在、NECグループ全体で11万人の従業員が在籍しています。国内のグループ会社や、欧州3社(NECソフトウェアソリューションズUK、KMD、Avaloq)との連携は強まってはいますが、正直なところ、私からみると、まだバラバラ感があります。それぞれの会社や事業の強さだけでなく、NECグループという強みを生かすことができれば、さらなる成長につなげることができます。
お客様やパートナーからは、NECグループとしての総合力が期待されています。これまで以上に、NECグループとしての力を発揮できる企業になりたいですね。