二人にお茶を

とある先輩夫婦のところへ遊びに行くと、いつも奇妙な気分になる。この先輩は音楽、とくにジャズが好きで、演奏するより鑑賞が好きで、休日に後輩を家に招けばリビングの立派なオーディオセットで古いレコードを次から次へと聴かせてくれる。その間、彼の妻は台所の奥へ引っ込んで、静かにお茶の支度をしている。

私は彼女を手伝うべきか迷うのだが、自分は今日は先輩の客であるからして、ここは客らしく振る舞うのがよかろう、と腰掛けたままレコードを拝聴する。次はライブのDVDを観よう、と言う先輩の背後で夕飯の仕込みが始まる。えっ、今夜はよばれるつもりはないよ? とお暇のタイミングを計りつつも、私は先輩の客であり、今の役目は先輩が嬉々として語るこの映像実況を聴くことであるからして、……とモジモジするうち、気づけばとっぷり日が暮れている。

帰り際、「いつも夫ばかり岡田さんを独占して、私だってゆっくりお話ししたかったわ」と言われる。社交辞令とわかっていても申し訳ない気持ちになる。私が親しいのは昔から音楽の趣味が合うこの先輩であって、後から紹介された彼の妻ではない。「あいつは音楽に興味がないんだよ」と先輩は言うが、正確には「この音楽に興味がない」だけで、妻には妻なりの嗜好があるだろう。それをじっくり聞いてみたい気もするが、こんな会い方を続ける限り、彼女と距離を縮める機会はない予感もする。

仲睦まじい夫婦で、独立した一個人として互いに互いを尊重し合っている。でも、外で会うときは添え物のように扱われない女性であるからこそ、彼女が「奥様プレイ」に徹する様子は、どうしても気にかかる。いっそ席を外してくれたら……とも思うが、他人様の家に上がり込んでおいて何を言うかという話だし、時として先輩と二人きりになる間合いも、それはそれで居心地が悪い。彼女がどこへも出かけず「奥」に控えているのは私のような後輩の気を安らげるためかと思えば、彼女から自由な時間を、ご夫婦からあるべき均衡を奪っているようで、ますます申し訳なくなる。

「また遊びにおいでよ」と誘われるのだが、最近は足が遠のいた。夫婦という単位で結びついた二人組と、同時に等しく付き合って、何の犠牲もストレスも生じない三人組を結成するというのは、なかなかに難しいことである。

俺とおまえとチキチータ

この現象を私は「藤井謙二問題」と呼んでいる。90年代にデビューしたユニットMy Little Loverは、まずakkoと藤井謙二という男女二人で結成された。出演番組や取材記事などを見ると、他人とも恋人同士とも異なる親しさで擬似兄妹のようにじゃれ合う二人が大変チャーミングだ。おまえらそんなに仲良いならくっついちゃえよ……! と誰もが萌え悶えたまさにその翌年、擬似妹は、追加された三人目にしてプロデューサー、すなわち擬似父にも等しい存在である小林武史と電撃結婚したのだった。

実在の藤井謙二氏が当時どう思っていたのかはまったく知らないし、akkoと小林武史も現在は離婚しているのだが、「友達と、その配偶者と、俺とで構成される三人組、や、やりづれぇ……」と思うたび、瞼の裏に謙兄ィのあのアルカイックスマイルが浮かぶ。

若い時分、「友達」に「恋人」を紹介されても何とも感じなかったのに、大人になった「友達」に「配偶者」を紹介されると、途端に距離を掴みづらくなるのは不思議なものだ。悩める我ら藤井謙二にとって、「友達夫婦とうまく付き合う」最も手っ取り早い方法は、結局「こちらもペアで挑む」ことである。パーティーに招かれたらたとえ恋人同士でなくとも男女で出席し、いくら不特定多数の異性にモテモテでもその場においては特定一人のエスコートを立て、いかなる些細な行事でも必ず夫婦揃って参加するという、あの欧米のカップル文化のように。

かくいう私も、仕事で会食をセッティングするときなど、男女二人を二組、という黄金の四角形を意識的に多用している。夫婦が来るなら対向にはソロの男女を一人ずつ。男女男、と参加表明が届けばもう一人、誰か女を。学生街の小さな喫茶店はキミとボクとの二名掛けだが、社会人が大人の話をするレストランのテーブルは、あらゆるABBAたちのために、四名掛けを最小単位に設えられている。

でも、私は本当に「一人」で「夫婦二人」と向き合ってはいけないのだろうか? ただテーブルの四隅を安定して押さえるためだけに、手近な異性、たとえば自分の夫や別の男友達の襟首掴んで無理にかりだして、わざわざABBAらねばならないのだろうか? 趣味の合う先輩と私とが熱く語っている間、彼の妻と私の夫とが台所で奥様プレイに興じる光景も、あるいは、四人中二人がまるで関心を持たない音楽をみんなで向かい合って静かに聴いている光景も、とても自然なものとは思えないのだ。

酒と泪とMan&Woman

また別の日、昼間からまったりワインを飲む、というホームパーティーが企画された。ホストはかつて酒豪で鳴らした女友達で、育児が一段落して飲酒解禁となったので嬉しそうだ。子供たちもすっかり慣れたもの、親の目の届く距離、というより親に目の届く距離で「ママ、のみすぎないでよ!」などと言いながらアニメを観ている。誰かがふと、「そういえば、今日は旦那様はいらっしゃらないの?」と訊いた。

「いいのよ、あのひと、下戸だから。一滴も飲まずに私たちに酌して回るのもおかしいでしょ? 久しぶりに一人でどこか出かけてるってさ!」

二児の母となってますます輝く彼女の豪胆さに感じ入るとともに、あの音楽好きの先輩宅でどうしても居心地悪かった理由が、少し理解できた。誰かの味わう楽しみについて、その配偶者が「興味がある」「関心がない」といった表現は、あまりに主観的、かつ曖昧すぎるのだ。酒が飲めないから、酒を飲まない。その光景の、なんと自然なことか!

「夫婦というものは夫婦二人でいる時間が最大限に幸福に違いない」という、不思議な思い込みがある。人生ソロ活動を標榜してきた私にさえ、それがある。神前で誓いを交わすとき、役所に届を提出するとき、「二人の幸福」をやたらと強調されるせいかもしれない。その思い込みのために、夫婦茶碗が一個ずつを組み合わせた二個一対の茶碗であることをつい忘れがちである。どちらかに少しでも欠けが生じたら両方とも台無しになってしまうと、余計な気を回しがちである。

そうして自分たちで無理難題を設定してから、わざわざ「やりづらい」と嘆く。「夫婦水入らずのところを押し掛けちゃって、悪いわね~」「本当は奥様とご一緒のほうがイイんでしょうけど、私なんかがお相手で、ごめんなさいね~」といった物言いは、二人のソロ活動を阻む、他者からの幸福の押し売りかもしれない。

女友達に呼ばれ、夫不在のリビングで昼酒を呷ったあの日から、「友達夫婦とうまく付き合う」私なりの方法は、「下戸だと思うこと」である。楽しい場所へ一人で出かけるとき、楽しめないと言う相手を置き去りにするとき、「夫婦二人でいる幸福」より「誰かと味わう一人の幸福」を優先させて何か後ろめたく感じたとき、「ABBAの中に、たまたま下戸がいただけだ」と自分に言い聞かせる。

酒を愛する者として、誰の妻でも夫でも、飲めない相手に酒を強いることはすまい。望むならソフトドリンクで参加してくれてもよいが、酒を飲んでも飲まずとも、その場にいてもいなくとも、テーブルの四隅は揺らがない。男女二人組の時代も、三人組の時代も、夫婦ユニットになってからも、My Little Loverはそれぞれが絶妙な均衡を保っていた。現在に至ってはakkoが一人でこのユニット名を名乗っている。カップル文化に拠らない人間関係の落としどころは、いくらでもあるはずなのだ。

それにしても、「一滴も飲まずに酌して回るのもおかしいでしょう?」と言い放った男前な彼女のように、次にお邪魔するときこそは遠慮せず、「先輩、お茶くらい、自分たちで煎れましょうよ」と言おうと思う。夫とともに座り続けるのでもなく、妻とともにお茶だけ運ぶのでもなく、コンサートのDVDは、一時停止して。

<著者プロフィール>
岡田育
1980年東京生まれ。編集者、文筆家。主な生息地はTwitter。2012年まで老舗出版社に勤務、婦人雑誌や文芸書の編集に携わる。同人サークル「久谷女子」メンバーでもあり、紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。「cakes」にて『ハジの多い人生』連載中。CX系『とくダネ!』コメンテーターとして出演中。2013年春に結婚。

イラスト: 安海