1873年のイギリスで、運転士に名指しで発車の合図をしたばかりに死傷事故が起きた。そのエピソードが山之内秀一郎氏の著書『なぜ起こる鉄道事故』(朝日文庫)で紹介されている。
イギリス西部のコーンウォール鉄道で、途中の行き違い可能な中間駅に、上り貨物列車と下り貨物列車が発車を待っていた。コーンウォール鉄道は安全施設が不十分で、列車が駅に進入する許可を出すための場内信号機はあったけれど、出発を許可するための出発信号機はなかった。列車の出発するしくみは、進行方向の隣の駅から「出発よし」という電信を受けて、それを駅の信号係員が口頭で運転士に伝える手順だった。
このとき、信号係員は正しい手順で仕事をした。下り列車の発車許可の電信を受け取って、運転士に伝えようとした。下り列車の運転士は信号係員と顔見知りの友人、ディックだった。そこで親しみを込めて、「ディック、発車オーライ!」と伝えた。
すると、下り列車だけではなく、上り列車も出発してしまった。なんと上り列車の運転士の名前もディックだった。本来、出発許可を出していない上り列車は、制止の声も聞こえず走り去り、やがて反対方向からやってきた列車と正面衝突した。乗務員1名が死亡、3人が重軽傷だったという。
本書『なぜ起こる鉄道事故』では、コーンウォール鉄道はこの事故をきっかけに出発信号機を整備したと紹介している。もちろんそれも必要だけれど、もし列車それぞれに固有の番号を付け、発車の合図を列車番号で実施していたら、この事故は防げたかもしれない。
日本をはじめ、世界のほとんどの鉄道では、列車を指図するときは列車番号を使う。列車番号は始発から終着までの列車ひとつひとつにつけられた番号だ。たとえば東京発6時0分発の東海道新幹線「のぞみ1号」の列車番号は「1A」、同じ時刻に東京駅を発車する東北新幹線「はやて71号」の列車番号は「8071B」だ。つまり「東京駅6時発の新幹線」は2つある。しかし「1A」「8071B」はそれぞれひとつしかない。
乗客に案内する場合は、「6時ちょうど発の『のぞみ1号』博多行は14番線です」「6時ちょうど発の『はやて71号』は20番線です」と詳しく説明する。しかし、列車運行の現場では長くなってもどかしい。そこで列車番号を使い、「1Aは14番線」「8071Bは20番線」というやりとりをする。
駅の構内放送に耳を澄ませると、乗客向けの案内放送の他に「業務連絡」が流れる。たとえば東京駅で「1523E、遺失物捜索」「1523E、捜索完了」という短い放送があった場合、「6時45分発、東海道本線の平塚行の電車でお客様の忘れ物を探します」「6時45分発、東海道本線の平塚行電車、忘れ物探しが終わりました」という意味になる。
運転士や車掌は自分の担当列車の番号を知っているから、この放送で「停車時間が長くなる」「駅員の発車よしの合図が遅くなる」と把握する。駅員に対しては、列車の運転席の窓付近に列車番号が表示されているし、駅によってはホームに列車番号表示器があるから、それで停車中の列車の番号を認知できる。
新幹線の場合、列車番号と列車の愛称に続く番号は同じだからわかりやすい。列車番号を使う理由は、愛称を出すと乗客が反応してしまうからでもある。業務連絡で乗客を心配させたり、注意を引かないようにという配慮だ。普通列車の場合は同じ形式の車両、同じ行先の列車がたくさんあるから、列車番号を使えばきちんと区別できる。
列車の運行業務上、列車の愛称はほとんど使われない。発車の合図も列車番号で行う。たとえ駅員や列車指令と運転士が仲良しだったとしても、運転士に対して「杉山さん、出発していいよ」とは言わない。「1523E、発車よし」だ。列車番号は列車に固有の名前だけど、人間の名前は同姓や同名があるからだ。