小田急電鉄小田原線は1927(昭和2)年に全線電化で一挙に開業した。だから開業以来、今日に至るまで、使用車両はずっと電車だ。しかし、1955年から1968年にかけてディーゼルカーを運行していた。それは、現在も続くあのロマンスカーの先駆けだった。

小田急電鉄が運行したディーゼルカーはキハ5000形・キハ5100形だ。どちらも小田急電鉄が東急車輌に発注した。キハ5000形は1955年に2両が製造され、増備用として1956年にキハ5100形を1両製造。1959年にキハ5100形を1両追加した。合計4両のディーゼルカーが在籍していた。キハ5000形とキハ5100形のおもな違いは座席配置と定員だった。

キハ5000形もキハ5100形も、座席指定の優等列車として製造された。しかしキハ5000形は定員を増やすため座席の間隔が狭く不評だった。そこでキハ5100形は座席の間隔を広げて定員を減らした。後にキハ5000形も座席配置を変更し、キハ5100形に合わせたという。

なぜ全線電化の小田急電鉄はディーゼルカーを新造したのだろうか。その理由は、国鉄御殿場線へ直通運転するためだった。当時の御殿場線は非電化路線だった。電車の直通運転はできなかったから、御殿場線乗入れ専用にディーゼルカーを作ったというわけだ。小田急電鉄は現在、御殿場線に直通するロマンスカー「あさぎり」を運行している。そのルーツとなる列車のために、キハ5000形・キハ5100形を作った。

特急「あさぎり」。2012年3月ダイヤ改正までJR東海371系・小田急電鉄20000形RSEが使用されていた

小田急電鉄は箱根の観光開発に力を入れていた。1950年には、箱根登山鉄道の箱根湯本駅まで直通運転を実施している。そして、第2の箱根観光ルートと、富士五湖方面への観光拠点として御殿場に注目していた。御殿場線直通計画は大東急時代の構想のひとつでもあり、大東急解体後の小田急電鉄が引き継いだ形だ。

小田急電鉄は御殿場線に直通するため、小田急線新松田駅と御殿場線松田駅を結ぶ連絡線を作った。当時、御殿場線は蒸気機関車と客車による運行だったため、車両は小田急側が用意することになり、電鉄会社がディーゼルカーを作るという珍しい事例となった。

こうして、1955年10月から午前便として特別準急「銀嶺」が1往復、午後便として特別準急「芙蓉」の運行が始まった。1956年に増結用としてキハ5101が作られたところをみると、営業成績はよかったようだ。その後、御殿場線内のすれ違い設備を増やしたこともあって増発が決定し、キハ5102も追加され、1959年7月から4往復運転になった。午前便は「銀嶺」「朝霧」、午後便は「芙蓉」「長尾」。それぞれ1往復が設定された。

それから9年後、1968年にキハ5000形・キハ5100形は引退する。御殿場線の電化が完了したため、直通列車も電車に変更となった。車両は箱根特急から引退したロマンスカー3000形電車に決まった。この機会に列車名も「あさぎり」に統一された。

その後、小田急電鉄と御殿場線の直通列車は、1991年に小田急電鉄20000形RSE・JR東海371系に交代。2012年から小田急60000形MSEに統一され、現在に至っている。

現在の特急「あさぎり」は小田急電鉄60000形MSEで運行される

キハ5000形・キハ5100形はどうなったか。御殿場線直通列車から引退した当時、どちらも製造から10年前後で、まだまだ現役で使える車両だった。そこで、関東近郊で気動車を運行している関東鉄道に売却された。関東鉄道では通勤車両として使用するため、座席をロングシートに改造し、車体の中央に乗降扉を増設した。塗装も変更されたため、小田急電鉄時代の名残は前面形状にとどまる程度だったようだ。まさに「面影」である。

関東鉄道ではキハ751形・キハ753形という形式となった。その後、関東鉄道は国鉄の中古車を大量に増備することになる。キハ751形・キハ753形は押し出される形で1988年までに引退。小田急時代を通じて約30年の生涯を閉じた。

なお、小田急電鉄ではガソリン機関車と客車による列車を運行した路線もある。1927年に開園した向ヶ丘遊園地へのアクセス路線として、稲田登戸(現・向ヶ丘遊園)から向ヶ丘遊園地までの約1kmをガソリン機関車と小型客車で運行していた。利用者には「豆汽車」の愛称で親しまれていたけれど、1965年に廃止された。

翌年には同じルートを引き継いだモノレール路線が開業し、2001年まで運行されていた。2002年には向ヶ丘遊園地も廃園となっている。