阪急電鉄の梅田駅といえば、神戸本線、宝塚本線、京都本線の3路線が集まる大阪の大ターミナル駅。ヨーロッパ風の大屋根と行き止まり式のホームがあり、次々と電車が発着する。その様子は鉄道ファンにはたまらない。都合のいいことに、ホームを見渡せる軽食喫茶店もあり、1日中眺めていたいくらいだ。
この梅田駅から十三駅まで、神戸本線、宝塚本線、京都本線の複線が並行している。6本の線路が並んで新淀川橋りょうを渡り、十三駅構内で各路線が分かれていく。とくに日中は、10分ごとに3方向の列車が同時に発車する。きっと阪急側も意図しての演出だろう。いつ見ても楽しいトレインビューである。
ところで、仲良く並ぶ3つの複線だけど、途中の中津駅だけは趣が違う。神戸本線・宝塚本線のみ電車が停車し、京都本線にはホームがない。なぜ京都本線にはホームがないのだろうか? ここだけ京都本線が全列車快速運転のつもりだろうか? ちょっと不自然な気がする。
結論から言うと、その理由は3つの複線のうち京都本線の線路が最後に建設され、「ホームを作る場所がなかったから」となる。身もふたもない話だけど、事実だから仕方ない。中津駅を実際に見てみると、用地不足の中、苦心して建設された様子がわかる。神戸本線も宝塚本線もホームは狭く、改札や駅事務室はホームの真下にある。隣の国道から眺めると、ホームはあっても入り口がないように見えてしまう。実際は歩道の隅に階段があって、線路の下に潜り込むように歩いていくと改札口がある。
3複線区間はどのようにできたか?
梅田~十三間は1910(明治43)年、箕面有馬電気軌道により開通した。これは現在の宝塚本線にあたる。1918(大正7)年、同社は阪神急行電鉄に社名を変更。1920年に十三駅から分岐する形で神戸本線が開通する。梅田~十三間は宝塚本線と神戸本線の共用となった。
一方、京都本線の前身となるのは北大阪電気鉄道で、1921年に十三~千里山間が開業した。これを京阪電気鉄道が買収し、新京阪鉄道とした。京阪電気鉄道は従来の路線(現在の京阪本線)の他に、京阪間を高速に結ぶ「第2京阪線」構想を持っていた。
1925年に中津駅が開業し、翌1926年に梅田~十三間は高架化。宝塚本線と神戸本線は分離され、それぞれ複線となった。新京阪鉄道は北大阪電気鉄道の既存路線を活用しつつ、淡路から大阪都心に近い天神橋(現在の天神橋筋六丁目駅)までの路線を建設。天神橋と京都西院(現在の西院駅)を結ぶ路線を完成させる。これで十三~淡路間は支線となった。
1930年、京阪電気鉄道は新京阪鉄道を合併した。しかし1943(昭和18)年、京阪電気鉄道と阪神急行電鉄は戦時合併で京阪神急行電鉄に統合。戦後の1949年、再び京阪電気鉄道が設立され、両社は分離したが、もともと京阪の路線だった京都本線は残った。
戦時合併されていた時代の京阪神急行電鉄では、京都からの電車が宝塚本線に乗り入れ、梅田駅へ直通運転が行われたという。京都本線が誕生した後、1959年には宝塚本線を複々線とする一方で、天神橋~淡路間を京都本線から外し、十三駅までが京都本線に。京都方面から梅田駅へ向かうのがメインルートとなった。
この複々線化工事において、用地不足などを理由に、京都本線用の複線に中津駅ホームは建設されなかった。ホームがなくても快速運転用に使えると考えていたのかもしれない。当時、宝塚本線の一部の電車が京都本線用の複線を使っていたという。しかし、列車本数が増加したこともあり、後に京都本線と宝塚本線は独立して運行されるようになった。
こうした経緯もあって、現在も京都本線の戸籍(国へ届け出た路線名の区間)上の起点は十三駅だ。梅田~十三間は、「宝塚本線に乗り入れる」という解釈になっている。