蒸気機関車C61 20が復活運転を開始し、上越線高崎~水上間などで客車を牽引して快走。9月には、C61 20に加え、D51やC58が重連で旧型客車を牽引する予定となっているなど、今年の夏は「上越線」がアツい!

そんな上越線の約30年前を、3つのキーワード「名列車」「珍名所」「名脇役」で振り返ってみたいと思います。

利根川にかかる鉄橋を渡る181系特急「とき」。上越線、水上付近。1980(昭和55)年9月23日

堂々の12連で疾走していた特急「とき」。その全景を収めることはできなかった。上越線、水上付近。1980年9月23日

まずは「名列車」。上越線の名列車といえば、なんといっても上越新幹線開業まで上野~新潟を結んだ181系ボンネット特急「とき」ではないでしょうか。

特急「とき」は、1962(昭和37)年6月、信越本線長岡~新潟間の電化が完成し、上野~新潟間が全線電化されるとともに誕生しました。当時の車両は、161系特急形電車。この車両は、国鉄初の電車特急「こだま」(東京~大阪・神戸間)の151系を、「連続勾配・豪雪地帯」という上越線の特長に合わせて改良し新製したもので、後に151系からの改造車を加え181系となりました。

上り「とき」が水上駅に近づく。前から6~7両目は、新幹線開業後に交直流特急用グリーン車への転用を前提に製造されたため、181系より車高が高くなっている。上越線、水上付近。1979年8月

なかなか撮れないボンネットのあおり。JNRマークが懐かしい。上越線、水上付近。1979年8月

デビュー当初は1日1往復だった「とき」。1970年代に入ってから、高度経済成長という時代の後押しもあり、増発が続きます。1973年の最盛期には、上野~新潟間を1日13往復、所要時間約4時間で結び、181系特急「とき」は、名実ともに上越線の名列車となったのです。

しかし、1973年末から翌年1月にかけて日本海側を襲った大寒波により、「とき」に故障が多発。経年劣化も加わってダメージが拡大し、運休が続出する事態に発展してしまいました。そこで当時の国鉄は1974年12月、東京から房総方面を結ぶ特急用車両に耐寒・耐雪装備を施した183系1000番代を投入し、「とき」13往復中3往復を置き換えました。

これをきっかけに、老朽化する181系の置き換えが進められました。1978年10月、「とき」はさらに1往復増発されて1日14往復となりましたが、181系での運転は4往復。その後、3往復にまで減少されながら活躍を続け、1982年11月の上越新幹線開業により、特急「とき」は廃止されました。

夏の日差しを浴びて、上野へ向かう「とき」。上越線、水上付近。1977年8月

余談ですが、現在の閑散とした水上~越後湯沢間がまるでウソのように、当時は列車密度が濃く、1時間に1本走ってくる「とき」をはじめ、特急「いなほ」、急行「佐渡」、普通列車、貨物列車とシャッターチャンスが豊富にありました。

そんな状況で、何気なく撮った写真を紹介します。

踏切で顔を合わせた水上名物「トテ馬車」と485系特急「いなほ」。上越線、水上~湯檜曽間。1979年8月

165系急行通過を後追い。上越線、土合駅上り線ホームにて。1977年8月

閑話休題。続いては「珍名所」。

皆さんもご存知だと思います。珍名所は、日本一のモグラ駅「土合駅」です。

水上駅から下り列車に乗って2つ目、土合駅の下りホームは、なんと新清水トンネル内。改札を出るには462段の階段(長さ338m)を上り、143mの連絡通路を渡り、さらに24段の階段を上らなければなりません。時間にして10分以上、ひざがガクガクになるほどの"苦行"が待ちかまえています。

水上駅に進入する115系下り列車。この列車に乗り土合駅へ向かった。撮影当時は中線が存在していた。1977年8月

乗ってきた下り列車が、土合駅下り副本線を出発。最後尾はクモユ141。なお、現在の土合駅は、副本線を閉鎖しその上にホームを増設、普通列車は写真左側の通過線(本線)上に停止し客扱いをするようになった。1977年8月

土合駅は1931(昭和6)年、上越国境を越える清水トンネル(全長9,702m、最急勾配15.2パーミル)開通と同時に、水上~越後湯沢間の延伸開業で上越線が全通した際、地上に信号所として新設され、後に駅へと昇格しました。当時は単線で、現在の上り線を使って上下列車が運行されていました。

戦後、輸送力増強のため複線化が進められ、1967年、その最大の難所、新清水トンネル(全長13,490m、最急勾配8パーミル)が開通。このトンネルは、勾配を緩和するために清水トンネルよりも深い位置を掘削したため、途中に設置された土合駅下りホームと、地上の上りホームとの間に約80mもの高低差が発生、これを階段で結ぶことになったのです。

驚いたことに、結構な数の客が列車を降りて階段を上っていく。登山客、谷川岳ロープウエイに向かうであろう観光客…。いったい何人がこの階段のことを知っていたのだろうか? 上部に靄がかかっていると、階段が無限に続くように見えて恐ろしい。上越線、土合駅にて。1977年8月

上の写真を撮ってしばらくすると、靄がなくなり、ようやく階段全体が見通せた。階段横にエスカレーター用のスペースが用意されているが、設置の気配はまったくない。上越線、土合駅にて。1977年8月

そして「名脇役」。上越線の名脇役は、ずばり峠のシェルパEF16です。EF16は、水上~石打間の急勾配区間専用の補機(補助機関車の略)で、簡単に言うと、この区間を走行する貨物列車などの機関車の前に連結し、勾配の上り下りを補助する電気機関車です。

唸りをあげ急勾配に挑むEF16 31。下り列車は、水上駅発車直後から急勾配が始まる。1979年8月

本務機EF15と重連で上越国境へ挑む。上越線、水上駅にて。1979年8月

当時、EF16は水上機関区(現在は廃止)に配置されていました。昼間、機関区を訪問すると、多くのEF16が留置されていました。まるで昼寝をしているかのように…。というのも、日中は運用が少なく、人々が寝静まった深夜、寝台特急から貨物列車の先頭に立ち、八面六臂の活躍をしていたからなのです!

次回はEF16の深夜の大活躍を紹介します。

※写真は当時の許可を取って撮影されたものです。本誌連載「昭和の残像 鉄道懐古写真」は、毎月最終週を除く水曜日に掲載。次週はお休みをいただきます
松尾かずと
1962年東京都生まれ。
1985年大学卒業後、映像関連の仕事に就き現在に至る。東急目蒲線(現在の目黒線)沿線で生まれ育つ。当時走っていた緑色の旧型電車に興味を持ったのが、鉄道趣味の始まり。その後、旧型つながりで、旧型国電や旧型電機を追う"撮り鉄"に。とくに73形が大好きで、南武線や鶴見線の撮影に足しげく通った