黒澤明といえば日本を代表する映画監督。意図した天気になるまで何日も待ったり、馬を何十頭も調教したりするなど、徹底したこだわりが伝説化している。なかでも有名なエピソードのひとつが、「映像の邪魔になる民家を取り壊した」だ。そのシーンが出てくる作品が『天国と地獄』で、151系電車特急「こだま」の車窓から見ることができる。

主人公の葛藤描く前半、地道な捜査で犯人を追い詰める後半

1963年東宝作品『天国と地獄』(普及版)。DVD発売中。価格は3,990円(発売・販売元 : 東宝)

会社重役の権藤金吾(三船敏郎)は、自分の仕事に対する信念のため、儲け一辺倒の取締役たちを一掃すべく会社乗っ取りを企てる。その資金のめどがついたとき、彼のお抱え運転手の息子が誘拐されてしまう。

権藤の息子と間違えて誘拐してしまった犯人だが、開き直って権藤に身代金を要求。権藤は拒否するも、妻(香川京子)や刑事たちの説得で、身代金を差し出すことに。その行為は人道的に世論から評価されるだろう。しかし、権藤にとって乗っ取りはビジネスマンの人生を賭したもの。失敗すれば身の破滅という状況である。

犯人は人質の安否確認と身代金の受け渡し場所として、東海道本線の特急「第2こだま」を指定する。受け渡しは成功し、運転手の息子は無事に帰ってきたが……。

ここまでが物語の前半。権藤の心の葛藤、妻の説得、秘書(三橋達也)の裏切り、お抱え運転手の苦悩などが交錯する。後半は一転して刑事たちの出番となり、知的な犯人を地道な捜査で追い詰めていく。

映画が公開された1968年は、東海道新幹線開業の1年前だった。151系電車の特急「こだま」は東京~大阪間を6時間50分で結んでいた。当時、まだ電車特急は珍しかったのか、列車内で、「先頭の"機関車"と後部の"機関車"から8mmフィルムで撮影しろ」と命じる場面もある。

犯人役には山崎努。他の出演者として、刑事役には『スクール☆ウォーズ』の校長先生役でも親しまれた名古屋章、工員役に初代「水戸黄門」東野英治郎、権藤に詰め寄る債権者役は2代目「水戸黄門」西村晃、捜査本部長役に『新幹線大爆破』で国鉄総裁を演じた志村喬など。ドラマ『特捜最前線』の"おやっさん"こと大滝秀治も、セリフのない新聞記者役で登場する。権藤金吾の息子、つまり誘拐されなかったほうの子役は江木俊夫。後にフォーリーブスのメンバーとなる人だ。

「こだま」の酒匂川走行シーンに「民家を壊した」場所が

この物語のカギとなるのが特急「こだま」。151系電車12両編成で、先頭から大阪寄り4両が2等車、5号車が食堂車、6号車にビュッフェ(軽食喫茶室)が付いていた。権藤や刑事たちは2等車に乗っていた。ビュッフェでは国鉄初の列車電話サービスが行われ、犯人から権藤あてに電話がかかってくる。「酒匂川のたもとで子供を見せる。確認したら、窓から現金入りのカバンを投げよ」と指示される。151系の窓は、2等車の洗面所だけが少しだけ開くようになっている。

この場面に、いまや伝説となった「民家を壊した」場所が登場する。列車の窓から子供の姿を見ようとすると、川と線路の間にある民家の屋根にさえぎられる。そこで黒澤監督は、屋根を取るように指示。民家に頼みこみ、東宝の大道具部隊が屋根を壊したという。映像ではたしかに、誘拐された子供の姿が見通せる。その手前に平屋の建物があり、屋根はあるものの、不自然に角材が乗っている。あれはきっと仮の屋根の補強材だったのではないかと思われる。

後に、このエピソードを検証したテレビ番組が作られた。その番組の制作に関わっていたのが、本誌連載「昭和の残像 鉄道懐古写真」の松尾かずと氏だ。彼の話によると、取材時、すでにその建物はなく、新築に建て替えられていた。家主の話では、「ある日、映画のスタッフがやってきて頼まれたので、復元を約束して許可した」という。壊された屋根は後日、また大道具係がやってきて造り直したそうだ。当時、映画会社の大道具係は優秀な大工職人がそろっていたのだろう。

この風景は車窓の左側。そんなに苦労しなくても、上り列車にして富士山側の風景を使えばいい絵になるのに……、と思ったものの、このとき富士山側には、開業を控えた新幹線の鉄橋がすでに並んでいたはず。さすがの黒澤監督でも、新幹線に「どけ!」とは言えなかったのかもしれない。

ちなみに、このシーンは国鉄の全面的な協力を得て、特別列車を仕立てて撮影されたそうだ。乗客も食堂車の職員もエキストラを多数動員し、1回限りの撮影のため、田町電車区で入念なリハーサルが繰り返された。その田町電車区の風景は、捜査会議中の回想シーンで登場。背景にはぴかぴかに整備された153系急行電車が映っている。

"オトテツ"も登場!?

同作品の鉄道における"主役"は151系電車だが、他にもまだまだ見どころがある。たとえば捜査の途中、電話に混じった電車の音を頼りに、刑事が「専門家」(演じるのは名脇役の沢村いき雄)を尋ねる場面。刑事のセリフはいまでいう"オトテツ"そのもの。「このシュルシュルッて音は、パンタグラフじゃないんですよ。ポールが架線を押しつけましてね……」「それに車輪の間が短いものだから、ガタンガタン……」と、鉄道ファンのごとく嬉々として語るのだ。物語の後半には江ノ電も登場する。

映画『天国と地獄』に登場する列車

151系特急「こだま」 同作品の鉄道における"主役"。車内はグリーン車、食堂車、ビュッフェのキッチン、
電話室、2等車の洗面所。走行中の運転室映像は貴重かもしれない。
背景の看板に「明治乳業」「藤澤ミシン」などが見える。新幹線の高架橋も見える
東急5200系
国鉄72系電車
『天国と地獄』タイトルの背景で、根岸線と東急東横線が併走する区間が映る
京急電鉄 配役紹介の背景。白い帯があることから京急と推定される
横浜市電 「監督 黒澤明」の字幕の背景に登場
貨物列車 人質の子供を取り戻す場面。酒匂川鉄橋を長大な貨物列車が通過する。機関車は
画面の外。車掌車は4枚窓とデッキ構造からヨ3500形と推定され、
貨物列車に必ず車掌車が付いていた時代が懐かしい。車掌車は1990年代に全廃されている
山手線101系電車 非冷房先頭車。捜査会議の回想シーンに登場
東海道線153系電車 捜査会議の回想シーンで、田町電車区と酒匂川鉄橋を通過する場面に登場
横浜市電5系統 刑事たちの捜査中、車の前面窓の向こうを横切る
江ノ電100形 同型の108号は動態保存されており、現在もイベントなど走行する。107号は
集電装置がポールに戻され、映画出演時に似た姿で鎌倉市内の公園に保存されている